
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼした張本人、それはオスマン帝国のスルタン「メフメト2世」です。
まだ若干21歳の若者だった彼は、1453年、ビザンツの首都コンスタンティノープルを陥落させ、千年以上続いた“ローマ帝国の最後の砦”に終止符を打ちました。
結論からいえば、ビザンツ帝国を滅ぼしたのはオスマン帝国のメフメト2世で、その動機は「イスラーム帝国の威信確立」「地中海貿易の支配」「宗教的・歴史的な“世界帝国”への野心」などが絡み合った複合的なものでした。
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ビザンツ帝国を滅ぼしたのは、オスマン帝国第7代スルタン・メフメト2世(在位:1444–1446年、1451–1481年)です。若くして即位した彼は征服王(ファーティフ)という異名を持ち、 1453年5月29日コンスタンティノープル攻略の成功によってイスラーム世界でも伝説的な存在になりました。大前提として、この若きスルタンが、ビザンツ帝国に「とどめ」を刺したことを覚えておきましょう。
単なる領土拡大ではなく、メフメトには強い動機がいくつもありました。
コンスタンティノープルは、東西・陸海の交通を結ぶ地政学的な要衝。ここを押さえることで、オスマン帝国はバルカン半島とアナトリアの支配を完全に統合できると考えたのです。
ビザンツ帝国はキリスト教世界の“象徴”のひとつ。そこを征服すれば、メフメトはイスラーム世界の「英雄」となり、自らの支配の宗教的正当性を高められると考えていました。
メフメトはギリシャ語を学び、アレクサンドロス大王やローマ皇帝に強い憧れを持っていたと言われています。彼にとってローマ帝国の後継者を名乗るビザンツを倒すことは、自らが「新たな世界帝国の主」となるための儀式でもあったのです。
パレオロゴス朝のビザンツは、もはやコンスタンティノープルとその周辺のみの小国状態。経済的にも軍事的にも限界に達しており、国際的な支援も薄く、狙われても仕方がないほど無力化していたのです。
滅亡の瞬間と、そこから始まる新たな時代も見ておきましょう。
彼は戦いの中で剣を手に取り、城壁で戦死。「王冠を脱ぎ、兵士として死ぬ」その姿勢は、最後の皇帝にふさわしいものでした。
陥落後、メフメトはこの都市を徹底的に修復・整備。イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ人が共存する多宗教都市として再構築され、オスマン帝国の政治・文化・経済の中枢として栄えることになります。
ビザンツの滅亡によって、千年続いたローマ帝国の血統は断絶。しかしその遺産は、皮肉にも征服者メフメトの中に新たなかたちで息を吹き返すことになるのです。
このように、ビザンツ帝国を滅ぼしたメフメト2世の動機には、単なる征服ではなく、
地政学的な計算、宗教的な正統性、個人的な理想と野心が複雑に絡み合っていたんですね。
帝国は滅んでも、その最期は「次の帝国のはじまり」でもあったわけです。