
「ビザンツ帝国」と「東ローマ帝国」って、なんだか別物みたいに聞こえるけど…実はこれ、同じ帝国を指す別の呼び方なんです!
ただし、呼び方によって見え方やニュアンスが変わるのも事実。
結論からいえば、「ビザンツ帝国」と「東ローマ帝国」は実質的に同じ国家を意味しますが、前者は後世の歴史家による呼称であり、後者は当時の人々が自ら名乗っていた正式な帝国名の一部なんですね。
では、それぞれの言葉がどこから来たのか、どんな違いがあるのかを整理していきましょう。
|
|
まずは、「呼び方」がどうして分かれているのかを見てみましょう。
ローマ帝国が395年に東西に分裂したとき、東側を支えていたのが、いわゆる東ローマ帝国。
住民や皇帝自身は、自らを「ローマ人(ローマイオイ)」と呼び、国名も「ローマ帝国」と名乗り続けていました。
つまり「東ローマ帝国」という呼称は、あくまで現代の便宜的な分類なんです。
この言葉が使われるようになったのは15~16世紀以降、つまりビザンツ帝国が滅亡した後のこと。
歴史学者たちが、東西ローマを区別するために、首都ビザンティオン(古名)→コンスタンティノープルにちなんで「ビザンツ帝国」と呼ぶようになったんですね。
「呼び名」は同じ帝国を指していても、それぞれ違ったイメージや強調点を持っています。
この言葉は、帝国がローマ帝国の正統な後継者であることを強調するためによく使われます。
法律・軍制・都市制度・公用語(初期はラテン語)など、古代ローマの伝統を維持していた面を重視しているんです。
こちらの呼び方では、ギリシア語文化、東方正教会、皇帝専制体制、神秘主義的美術など、独自に発展した東方世界の姿にフォーカス。
つまり「ビザンツ」という言葉には、“ローマの延長”というより、“ローマから変化した東方世界”というニュアンスが含まれているんですね。
学術的には、呼び方を時期ごとに使い分けることもあります。
この時期はまだラテン語が公用語で、行政や法制度にもローマ的な面影が色濃く残っています。
なので、「東ローマ帝国」という呼び方がしっくりくるんです。
ギリシア語が完全に行政言語となり、正教文化が花開くこの時代は、もはや“古代ローマ”というより別の文明圏と捉える研究者も多い。
だから「ビザンツ帝国」という表現がよく使われるわけです。
つまり、「ビザンツ帝国」と「東ローマ帝国」は指している国は同じでも、視点や強調点が違うだけなんですね。
このように、呼び名の使い分けを通じて、ローマ的な伝統と、東方的な独自性――両方の顔を持つ帝国だったことが見えてくるのです。