
ビザンツ帝国の「屯田兵制」は、農民に土地を与えて自給自足させながら、いざというときには兵士として徴兵する“農業×軍事”のハイブリッド制度でした。
この制度が機能していた時代、ビザンツは外敵に対してかなり粘り強く防衛ができていたんです。
そして後に登場する「プロノイア制」は、似ているようで仕組みも目的もぜんぜん違う別物。この記事では、この2つの制度をしっかり整理して比べてみましょう!
|
|
まずは、ビザンツ帝国の軍事力を根っこから支えていた“元祖システム”から見ていきましょう。
「屯田兵制(ストラティオタイ制度)」は、7世紀頃に確立された軍事制度。
これは、特定の農民に土地を与える代わりに軍役義務を課すというシステムです。
彼らは普段は農業をしながら暮らし、戦争のときには自前の装備で出陣するという、いわば“農戦両用”の暮らし方でした。
この制度は、ビザンツの地方行政制度であるテマ制と密接に結びついていました。
テマごとに軍団が配置され、屯田兵たちは自分の土地=故郷を守る感覚で戦っていたわけです。
それが結果的に、帝国全体の防衛力の地元密着型強化につながっていきました。
最強に見えたこのシステムも、時代とともにじわじわ崩れていくんです。
時間がたつにつれて、大土地所有者(貴族)が力を持ち始め、小規模農民たちの土地を買い取っていくようになります。
そうすると、自分の土地=戦う理由を失った農民兵が増えて、軍役に出る人が減っていくんですね。
自営農民に頼れなくなった国家は、傭兵を雇う方向にシフトしていきます。
結果として、屯田兵制はしだいに形骸化し、ついには維持不可能な状態に。
この頃から、新しい軍事・土地制度が模索されるようになるんです。
そこで登場するのが「プロノイア制」。でもこれは“第二の屯田兵制”というわけではなかったんです。
プロノイア制は11世紀以降に始まったもので、国家が土地の徴税権や使用権を個人(主に貴族・軍人)に与える制度でした。
ただしここで与えられるのは“所有権”ではなく、あくまで収益を得る権利。
代わりにその人物は軍務や公共事業など国家への奉仕義務を負うというシステムでした。
最初は一代限りの制度でしたが、時代が進むとプロノイアの世襲化が進んでいきます。
つまり、土地をもらった人たちがそのまま半独立領主化していき、中央集権の力が弱まっていったんですね。
この構造、どこか西ヨーロッパの封建制度にも似てると思いませんか?
屯田兵制とプロノイア制、どちらも「土地と軍事」を結びつけた制度だけど、仕組みも目的もけっこう違っていたんです。
前者は農民の自衛力を国家に組み込むシステム、後者は貴族や軍人に土地の利を与えて国家に奉仕させる仕組み。
このように、時代によって軍と土地の扱いがどう変わっていったのかを見ると、ビザンツ帝国の“変化への対応力”と“限界”の両方が浮かび上がってくるんですね。