
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とエルサレムの関係って、めちゃくちゃ深いんです。というのも、エルサレムはただの都市じゃなくて、キリスト教にとって「聖地中の聖地」。
ビザンツ皇帝たちは、この場所をどう守るか、どう扱うか――それを本気で考えていました。
結論からいえば、東ローマ帝国はエルサレムを「宗教的・政治的象徴」として重視し、支配・保護・再奪還をめぐってイスラム勢力とせめぎ合いながら、聖地への関与を続けていました。では、その関係を時代順に見ていきましょう!
|
|
まずは、東ローマ帝国がエルサレムを本格的に管理しはじめたところからお話しましょう。
キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世(在位:306–337年)は、エルサレムに聖墳墓教会を建てて、
この都市をキリスト教の聖地として世界に知らしめました。
その後もビザンツ皇帝たちは、教会の建設・維持に力を注ぎ続けたんです。
5世紀〜6世紀にかけて、エルサレムはビザンツの地方都市として治められ、
巡礼者が集まり、聖職者が育ち、宗教都市として栄えていきました。
でも、そんな安定は長く続きませんでした。7世紀には、外敵が次々とエルサレムに襲いかかってきます。
ペルシアのサーサーン朝がエルサレムを攻撃し、一時的に占領。
このとき、聖墳墓教会も被害を受け、「真の十字架」とされる聖遺物が奪われるという大事件が起きました。
ビザンツのヘラクレイオス1世が逆襲に成功し、エルサレムを取り戻します。
このとき皇帝自らが十字架を担いで入城するという、象徴的な出来事もありました。
ところがすぐその後、イスラム勢力(正統カリフ・ウマル)がエルサレムを包囲。
ビザンツ側は抵抗を断念し、平和裏に引き渡しました。ここから、エルサレムはイスラム支配下へと入ります。
エルサレムを失っても、ビザンツは完全に関係を断ったわけじゃありません。
イスラム政権下でも、キリスト教徒の巡礼はある程度許されていました。
ビザンツはイスラム政権と交渉して、巡礼路の安全や聖地の保護に力を注いでいたんです。
エルサレム総主教は、ビザンツ教会のネットワークに含まれていて、精神的なつながりは断たれていませんでした。
イスラム支配下でも、ビザンツ皇帝が影響を行使しようとする場面もありました。
そして11世紀末、聖地奪還を合言葉にヨーロッパが動き出します。十字軍の始まりです。
ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスは、西ヨーロッパに救援を求め、これが十字軍の発端に。
でも、十字軍が勝手にエルサレムを奪還してラテン王国を建てたことで、ビザンツは蚊帳の外に…。
エルサレムを奪還したのは“キリスト教徒”だけど、カトリック勢力。
これ以降、ビザンツは聖地を支配する存在ではなく、「外側から見守る存在」になってしまったんですね。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にとってエルサレムは、信仰の中心であり、政治的にも重要な場所だったんですね。
このように、帝国は聖地への影響力を失いながらも、宗教的つながりを絶やすことなく、静かに見守り続けた存在だったのです。