
ビザンツ帝国とシリアの関係は、「文化と宗教の橋渡し役」として深く結びつきながらも、宗教的な対立とイスラム勢力の登場によって次第に距離が開いていった、そんな複雑なつながりでした。
この記事では、ビザンツとシリアがどんなふうに支え合い、やがて分かれていったのか、その歴史の流れをたどっていきます。
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まずは、ビザンツ帝国がなぜシリアを重要視していたのか、そこから見ていきましょう。
シリアはローマ帝国の東部属州として古くから組み込まれており、ビザンツにとってはペルシャ帝国との国境地帯でもありました。
つまり、シリアは軍事的にも外交的にも重要な“盾”の役割を果たしていたんです。
シリアにはアンティオキア総主教座をはじめ、数多くの修道院や神学校が存在し、初期キリスト教神学の中心地となっていました。
聖書の研究やキリスト教の哲学的解釈が進み、ビザンツ世界の“精神的バックボーン”としても機能していたんですね。
支配と文化の交流がうまくいっていた一方で、ビザンツとシリアの関係には宗教をめぐる大きなズレもあったんです。
ビザンツ帝国がキリストの神性と人性の両立(両性論)を国教として確立したのに対し、シリアでは単性論を信じる人々が多かったんです。
この教義の違いが帝国と地方教会の対立を深め、次第に宗教的な疎外感がシリア側に生まれていったわけですね。
ビザンツ帝国は、宗教統一を図るために異端とされた教派への弾圧も行いました。
シリアのキリスト教徒たちは、中央に対する不信感を募らせ、独自の信仰共同体(シリア正教会)を形成していきました。
この宗教対立が、のちの大きな転機につながっていきます。
7世紀になると、シリアの運命は大きく動き出します。新たな支配者の登場によって、ビザンツとの関係は一変するんです。
636年、ヤルムークの戦いでビザンツ軍が敗北し、ほどなくしてシリア全土がイスラム勢力の支配下に入りました。
ウマイヤ朝の首都ダマスクスがその象徴で、ここからイスラム文明の中核として再生していきます。
皮肉なことに、ビザンツの支配下にあったころよりも、イスラム統治下の方が宗教的寛容があったという見方もあります。
これにより、シリアのキリスト教徒の一部は、ビザンツよりも新たな支配者の方に“安定”を見いだしていったんですね。
シリアはビザンツにとって「前線」でありながら、文化と信仰の源でもあったという、かなり特別な場所だったんです。
でも、宗教の違いや中央からの圧力がしだいに絆を壊していき、最終的にはイスラム世界に引き継がれていきました。
このように、ビザンツとシリアの関係は、協力と断絶が交錯する“東方帝国の縮図”のような歴史だったんですね。