
ビザンツ帝国とスラブ人の関係は、最初は“侵入者と防衛者”という緊張関係でしたが、やがてビザンツが文化と宗教を通じてスラブ世界に大きな影響を与えるようになった・・・
そんな“衝突から共鳴”へと変わっていく関係だったんです。
この記事では、両者がどう出会い、どう関わり合い、最終的にどんな形で歴史を動かしたのかを見ていきます。
|
|
最初の接触は、わりと荒っぽいものでした。仲良くなるには、ちょっと時間がかかったんです。
6〜7世紀ごろ、多くのスラブ系民族がバルカン半島へと南下。
この時期、ビザンツ帝国は東でササン朝ペルシャと戦っている最中で、西の守りは手薄。
そこにスラブ人が押し寄せてきて、村や町を襲撃、時には都市に定住し始めるようになったんです。
ビザンツにとって、バルカン半島は古くからの支配領域であり、文化と軍事の拠点でもありました。
でもスラブ人の定着によって、現地のコントロールが難しくなっていき、帝国の“中の他者”として存在するようになるんです。
でも、ただの“敵”で終わらなかったのが、ビザンツのすごいところ。
ここからは「文化攻勢」の出番です。
9世紀、ビザンツはキリル兄弟とメトディオス兄弟という修道士たちを派遣して、スラブ人へのキリスト教布教を進めました。
彼らはスラブ語を使った聖書翻訳やグラゴル文字の開発を行い、スラブ人が自分たちの言語で信仰を持てるようにしたんです。
ビザンツ式の東方正教会は、その後セルビアやブルガリア、さらにはルーシ(のちのロシア)にまで広がっていきました。
こうしてスラブ世界は、“ビザンツ文化圏”の一部になっていくんですね。
面白いのは、最初は“伝える側”だったビザンツが、やがて“伝えられた側”に支えられるようになることです。
1453年にビザンツ帝国がオスマン帝国によって滅びると、スラブ世界の中心だったモスクワが「ビザンツの後継者」を自認するようになります。
とくにロシア正教会は、コンスタンティノープルから正教の伝統をそのまま受け継ぎ、「第三のローマ」という考え方を打ち出したんです。
ビザンツの儀式、芸術、建築スタイルは、スラブ圏にしっかり根を下ろしました。
金色の聖像、ドーム屋根の教会、聖職者の衣装や聖歌まで、ビザンツの遺産はスラブ世界で“再生”されたとも言えるんですね。
最初は侵入者として現れたスラブ人が、やがて文化と宗教を通してビザンツと手を取り合うようになる――この変化って、ちょっと感動的ですらありますよね。
そして最終的には、ビザンツ帝国が滅んだあとも、その精神をスラブ世界が引き継いでいった。
このように、ビザンツとスラブの関係は「敵から仲間、そして後継者へ」と移り変わる、壮大な歴史のドラマだったんです。