
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と中国――このふたつの帝国って、ユーラシアの両端にあって、なかなか交わらなさそうに見えますよね?
でも実は、歴史の中で何度も情報・外交・文化・貿易を通して接点があったんです。
結論からいえば、東ローマ帝国と中国は、直接的な接触は限られていたものの、「シルクロードを通じた間接貿易」「互いの存在を認識した外交使節」「文化・宗教情報の交流」といった形で、東西文明をつなぐ“見えない架け橋”のような関係を築いていました。では、そのつながりを時代ごとに見ていきましょう。
|
|
まずは、「本当にお互いを知っていたのか?」という疑問から。
中国の史書、たとえば『後漢書』や『梁書』には、「大秦」という名前でローマ帝国、そして後のビザンツ帝国に言及しています。
“西の果てにある文明国”として記録されていて、かなり詳しい描写もあるんですよ。
『梁書』には、大秦王・安敦(=ローマ皇帝アントニヌス・ピウスもしくはマルクス・アウレリウス)が、166年に使者を中国(後漢)へ送ったという記録があります。これはおそらく間接的な貿易使節ですが、 中国はしっかり「西の帝国の存在」を把握していたわけです。
実際の交流はというと、直接バチッと外交というよりは、シルクロードを通じた“バケツリレー”式でした。
ビザンツ帝国では、シルク=高級品・権力の象徴。もともとは中国(漢~唐)で作られていたものが、 中央アジア~ペルシア~ビザンツへと運ばれていました。特にササン朝ペルシアが仲介役になることが多かったんです。
実は6世紀、ユスティニアヌス1世の時代に、中国から密かに絹の原料(蚕の卵と桑の種)を持ち帰った修道士がいたとされ、 それによってビザンツでも自前で絹を生産できるようになったんです!これ、いわば“シルクのスパイ作戦”ですね。
中国側も、ビザンツを単なる異国ではなく、文明の一部としてしっかり見ていました。
『旧唐書』や『新唐書』などでは、大秦の人々の生活、都市、宗教(キリスト教)、政治制度まで紹介されていて、 明らかに単なる貿易相手以上の関心が向けられていたことがわかります。
7世紀以降、中国には景教(ネストリウス派キリスト教)が伝来し、唐の都・長安に教会が建てられました。
この宗派は東ローマから追放された異端派ですが、ルート的にはビザンツを経由した思想がシルクロードを通じて伝わったと見られています。
お互い興味はあったのに、なぜ直接の往来が少なかったのか?その理由も歴史的に見えてきます。
中央アジアには騎馬民族やペルシア帝国がひしめき、長距離の外交はリスクが高かったんです。
「通れるけど、通しづらい」――それがビザンツから中国への道でした。
キリスト教圏のビザンツと、儒教・仏教・道教の多宗教国家・中国。
お互い文明として認め合いはしても、積極的に“融合”するまでには至らなかったのですね。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と中国は、ユーラシア大陸の両端に位置しながら、
このようにシルクロードを介して互いの存在を意識し、文明としての尊敬を持ってつながっていたんですね。
まさに“会ったことはないけれど、心のなかでは知っていた”という関係だったのです。