
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が何度も危機を乗り越えて生き残ってきたのは、柔軟で現実的な制度を次々と取り入れたからなんです。その中でもとりわけ重要な軍事・統治制度が、テマ制です。
「テマって何?地名?」と思った方、安心してください。じつはこれ、帝国が“生き延びるため”に生み出したすごい仕組みなんです。
わかりやすくいえば、テマ制は、外敵からの防衛と財政難の解決を目的に導入された制度で、地方の軍事力を強化しつつも、皇帝による中央集権を保つ絶妙なバランス装置でした。では、テマ制がどんなふうに誕生し、どんな役割を果たしていたのか、わかりやすく解説していきます。
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まずは、帝国がなぜこんな仕組みを作らなきゃならなかったのか、その時代背景を見ていきましょう。
7世紀になると、イスラーム勢力の急成長やスラヴ人の南下などで、帝国の東西国境は大ピンチに。
これまでのように中央から軍を派遣するやり方では対応が追いつかない状況になってしまったのです。
長引く戦争とペスト流行で人口は減り、徴税もままならなくなりました。
つまり、兵士を雇うお金もない。でも国境は守らないといけない――そんな八方ふさがりの中で考え出されたのが、テマ制というわけです。
じゃあ「テマ制」って、いったいどういうしくみなの?一言で言うと、「土地と軍のひとまとめ制度」です。
帝国を軍事単位=テマに分割し、それぞれに「ストラテゴス(将軍)」を置いて、軍事と行政を兼任させました。
つまり、現地の守備隊を中央から直接派遣するのではなく、地元で組織して地元で守るスタイルにしたんです。
兵士には土地(農地)を報酬として与え、そこで生活させながら、いざというときには軍務に就かせる。
これで、帝国は給料ナシでも戦える兵士を大量に持つことができるようになったんですね。
テマ制って地方に権力を与える仕組みにも見えるけど、実は中央集権と絶妙なバランスがとられていたのです。
テマの将軍(ストラテゴス)は皇帝の直接任命で決まります。
任期や権限も皇帝のさじ加減で変えられるので、地方にあまり勝手なことをさせない仕組みでした。
同じ人物に長く同じ地域を任せると反乱のリスクが高まるため、皇帝は任地を頻繁にローテーションさせたり、いくつかのテマに分割したりして、バランスを保っていました。
テマ制は帝国に安定をもたらしましたが、万能ではなかったんです。
この制度のおかげで、8〜10世紀には帝国は息を吹き返し、アラブ勢力との国境防衛にも成功。
“しぶとい帝国”として復活できたのは、まさにテマ制の力によるところが大きかったんです。
でも11世紀ごろになると、大土地所有者が台頭し、兵士農民が減少していきます。
さらに、皇帝が一部の貴族に土地を貸与するようになると、テマ制は中央のコントロールを失い、軍事力もガタ落ちに…。
これにより、12世紀に入ると帝国の軍事組織はますます弱体化し、外敵に対する防衛能力が低下していきました。特に、ヨーロッパからの新たな侵略者たちの波には効果的な対応ができず、多くの領土を失う結果となりました。
結局、テマ制の機能不全は帝国全体の衰退を加速させ、内政の混乱を招くことになるのです。帝国の指導者たちは、この危機を救うために改革を試みましたが、時既に遅し…。かつての栄光を取り戻すことはできなかったんですね。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の「テマ制」は、軍事と地方行政を一体化した、当時としては超革新的な制度だったんですね。
このように、ピンチの中で編み出された知恵が、帝国を再び立ち上がらせる大きな支えになったのです。