
「東ローマ帝国」「ビザンツ帝国」って、現代の呼び方であって、じゃあ当時の人たちが自分たちの国をなんて呼んでたのか?という疑問は当然出てきますよね。
結論からいえば、東ローマ帝国の正式名称は「ローマ帝国(Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων / Basileía tōn Rhōmaíōn)」で、皇帝自身も国民も“自分たちはローマ人(Ῥωμαῖοι / Rhōmaíoi)”だと認識していたのです。
つまり、あくまで「東」ではなく「本家ローマ」だったんですね。それでは、詳しく見ていきましょう!
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まず、今わたしたちがよく使う「東ローマ帝国」って、当時の言葉じゃないんです。
「東ローマ帝国」や「ビザンツ帝国(Byzantine Empire)」という呼称は、15〜18世紀の西欧の歴史家が、 西ローマ帝国と区別するために作った後付けの学術用語なんですね。
当時のビザンツ人たちは、最後の最後まで自分たちを“ローマ”と信じて疑わなかったんです。
言語が変わろうが、文化が変わろうが、「皇帝がいて、ローマ法があって、正統な信仰がある」=ローマだ!という自負があったんですね。
じゃあギリシャ語ではどう表現されていたか?
これがビザンツ帝国のもっとも正式な国号です。意味はズバリ、
「ローマ人の王国」または「ローマ帝国」。
皇帝の肩書きも「ローマ人の皇帝(Βασιλεὺς τῶν Ῥωμαίων)」でした。
一般的な呼び方としては、「Ῥωμανία(ローマニア)」という言い方もされていて、これは“ローマの土地”という意味。
ちなみに、現代の国名「ルーマニア」とは語源は同じだけど無関係です!
ビザンツの人たちは「ギリシャ人」じゃなかったの?と思われがちだけど、実は…
東ローマ帝国の民は、言語がギリシャ語でも、自分たちは「ローマ人」と呼んでいました。
「ギリシャ人(Ἕλλην)」という言葉は、異教徒を連想するため、キリスト教徒たちは避けていたんですね。
おもしろいことに、現代ギリシャの一部地域や正教会文化圏では、今でも「ロマイオス=正教の民」という意識がほんのり残っています。
ビザンツ側が「ローマ人」を自称していたのに対して、西ヨーロッパはというと…
カトリック教会や神聖ローマ帝国の人々は、ギリシャ語を話すローマ?うさんくさい!と感じていました。
だから「ギリシャ人の帝国(Graecorum Imperium)」と皮肉って呼んだりして、“ローマ正統性争い”が激しかったんです。
800年、カール大帝がローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されたことで、
西ヨーロッパではビザンツの「ローマ」の名乗りに完全に背を向けることになりました。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の正式名称は、実はシンプルに「ローマ帝国」だったんですね。
このように、文化も言語も変わっても、「ローマである」という誇りを手放さなかったのが、彼らのアイデンティティそのものだったのです。