
ビザンツ帝国における「養蚕」の歴史は、かつて中国だけが独占していた“シルク”という超高級素材を、密かに自国で生産できるようにしたことで、ビザンツは経済的・文化的に大きな武器を手に入れたという点で、とてもドラマチックなんです。
この記事では、どうやってビザンツが養蚕を手に入れ、それが帝国の中でどう扱われたのかを見ていきましょう!
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まずは、養蚕と切っても切れない「絹」が、もともとどうやって広まっていったのかをおさらいします。
絹はもともと中国の特産品で、紀元前から秘密の技術として門外不出とされていました。
蚕を育て、繭から糸を取り、織り上げるという工程すべてが国家レベルの機密だったんです。
中国から絹はシルクロードを通じて西方へ輸出され、ローマ帝国でも大人気に。
しかし、原産地である中国から買うしかなかったため、ローマ時代から“絹=超高級品”という図式が定着していたわけです。
ここからがビザンツのすごいところ。絹を“輸入”する時代から、“生産”する帝国へと一歩踏み出すんです。
6世紀、皇帝ユスティニアヌス1世(在位527–565)は、ペルシャやインド経由で中国絹にアクセスしていましたが、そのコストがとにかく高かった。
そこでなんと、彼は養蚕技術を密輸する計画を実行するんです。
ビザンツの修道士2人が、シルクロードを旅して中国に到達し、なんと竹の杖の中に蚕の卵を隠して持ち帰るというミッションを成功させます。
これにより、ビザンツ帝国はヨーロッパ世界で初めて自前の絹生産に成功したんです!
養蚕は単なる生産活動じゃありませんでした。ビザンツでは、それが戦略的な国家資源だったんです。
絹の生産と販売は、ビザンツでは国家専売。
生糸や織物の流通は政府の監視下で行われ、皇帝だけが最高級の絹を自由に使えるという制度が整えられていました。
とくに紫染めの絹は、皇族しか着られない“禁色”として扱われていたんですよ。
ビザンツ製の絹は、ペルシャ、アラブ、ヨーロッパ諸国に向けて輸出品として大人気に。
他国の君主への贈り物や、外交交渉の“手土産”としても活用され、まさに帝国ブランドとしての地位を確立していきました。
ビザンツ帝国にとって、養蚕はただの産業じゃなく、外交・文化・経済を動かす“シルク戦略”だったんです。
わざわざ命がけで秘密を盗んできたことからも、それがどれだけの価値を持っていたかが伝わってきますよね。
このように、ビザンツは絹を「贅沢品」ではなく「国家の武器」として使いこなした、したたかな帝国だったんです。