
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とオスマン帝国は、長きにわたって互いににらみ合い、そして衝突を繰り返してきました。西ヨーロッパの衰退とは裏腹に、東地中海では新たな勢力・・・オスマン帝国が台頭し、千年帝国に迫る勢いを見せていたんです。
そして、ビザンツ帝国は14世紀以降、台頭するオスマン帝国との連続的な戦争によって徐々に追い詰められ、最終的に1453年のコンスタンティノープル陥落で滅亡しました。それでは、この流れの中で何が起こっていたのか、時代ごとに追っていきましょう。
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なぜこの二国は敵対関係になったのか?背景にある構図を見てみましょう。
ビザンツ帝国はアナトリア半島(小アジア)を長く支配してきましたが、そこにトルコ系のイスラーム勢力が進出してきたことが直接の火種に。
とくにビテュニア地方やトラキアなどは、両勢力がぶつかりやすい場所だったんですね。
キリスト教世界とイスラーム世界という対立軸も、この争いを激化させました。
ただし単なる宗教戦争ではなく、経済や貿易路の争奪、軍事バランスも複雑に絡んでいたのがポイントです。
ビザンツとオスマンの戦いは、何度か大きな転機を迎えています。ここでは代表的な出来事を振り返ってみましょう。
この戦いは西ヨーロッパ諸国とビザンツが手を組み、オスマンに挑んだ大規模な十字軍戦争でした。
けれど結果はオスマン帝国の圧勝。西側の援軍も打ち砕かれ、ビザンツはさらに孤立していきます。
この時、オスマン帝国は中央アジアの英雄ティムールとの戦いに敗北し、一時的に混乱に陥ります。
このスキをついて、ビザンツは一部の領土を取り戻しましたが、それもつかの間の平穏でした。
最終局面です。メフメト2世が率いるオスマン軍が、大砲を含む最新兵器を駆使してビザンツの都を包囲。
最後の皇帝コンスタンティノス11世は奮戦しますが、ついに城門は破られ、ビザンツ帝国は完全に幕を下ろしました。
この両帝国の対立は、その後のヨーロッパ・中東情勢にも大きなインパクトを与えていきました。
キリスト教世界にとって、千年の都コンスタンティノープルが陥落したことは巨大なショックでした。
この事件をきっかけに、オスマン帝国への警戒感が一気に高まり、神聖ローマ帝国やヴェネツィアなどの対トルコ戦線が本格化していくのです。
一方、オスマン帝国側にとっては、この勝利によって「ローマの後継者」という名分を手に入れるきっかけにもなりました。
イスタンブール(旧コンスタンティノープル)を中心に新たな帝国像を築いていくわけです。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とオスマン帝国の戦いは、単なる地域紛争ではなく、時代の価値観や勢力図を丸ごと塗り替えるようなスケールの出来事だったんですね。
このように、ビザンツの終焉はオスマンの始まりであり、歴史の大きな転換点でもあったのです。