
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とウマイヤ朝――この二つの帝国は、7世紀から8世紀にかけて、地中海世界の覇権をめぐってガチンコのぶつかり合いを繰り広げていました。
結論からいえば、東ローマ帝国とウマイヤ朝の関係は「宗教を背景とした対立」「地中海とアナトリアでの軍事的衝突」「外交・捕虜交換などの実務的関係」を特徴とする、激しさと駆け引きの入り混じった関係でした。それぞれの時代・局面で何が起きたのか、順を追って見ていきましょう。
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まずは相手の正体を簡単に整理しておきましょう。
ウマイヤ朝は661年、アリー暗殺後に成立したイスラム史上初の世襲王朝。
首都はダマスクスに置かれ、地中海東岸・北アフリカ・イベリア半島にまで支配を広げた超大国です。
そして当然、地中海の東の覇者=ビザンツ帝国とは領土的にも宗教的にも全面衝突することになります。
本格的な対立は、まさに“イスラム対キリスト教”の看板を背負った、信仰+国家のぶつかり合いでした。
ウマイヤ朝は、ビザンツ帝国が拠点とするアナトリア(小アジア)半島へ繰り返し侵攻。
それに対してビザンツはテマ制で守りを固め、国境地帯でのゲリラ的な小競り合いが続きました。
ウマイヤ朝の大軍が、ついにビザンツの首都・コンスタンティノープルを包囲。
でもここで登場するのがビザンツの秘密兵器「ギリシアの火」。さらに冬の寒さと補給不足も重なり、包囲軍は撤退。
この戦いはイスラム世界の東欧進出を食い止めた歴史的防衛戦となりました。
両者の戦いは、単なる領土争いではなく宗教の代表者どうしという構図でもありました。
ウマイヤ朝のカリフはイスラム共同体の指導者であり、ビザンツ皇帝はキリスト教世界の守護者。
つまり、これは「信仰のリーダー対決」でもあったんです。
ウマイヤ朝の支配地域には、かつてビザンツ帝国が統治していたエジプトやシリアが含まれていました。
そこに住むキリスト教徒たちはジズヤ(人頭税)を払って信仰を維持していたものの、ビザンツとしては「彼らを取り戻す」意識も強く持っていたんですね。
とはいえ、ずーっと戦争ばかりだったわけじゃありません。実際には外交的な交渉や捕虜交換も行われていたんです。
毎年のように戦っていたので、当然大量の捕虜が出ました。
そのため、ウマイヤ朝とビザンツは捕虜交換の定期協定を交わし、特定の国境地帯で互いの兵士を解放し合うことも。
時期によっては、ビザンツがウマイヤ朝に貢納金を支払って一時的な和平を保ったこともあります。
「戦うばかりが外交じゃない」――その柔軟さもビザンツの強みだったんです。
では、この緊張関係はどう終わったのか?
ビザンツが完全にウマイヤ朝を打ち破ったわけではありません。
実際には内部の反乱(アッバース革命)によって、ウマイヤ朝は750年に滅亡。
以後、イスラム世界の“対ビザンツ政策”はアッバース朝が引き継ぐことになります。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とウマイヤ朝の関係は、「宗教を背負った国家どうしの最前線」だったんですね。
このように、対立と外交の繰り返しの中で、お互いが学び、戦略を磨いていった――そんな時代の熱気がここにあるのです。