
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の長い歴史の中で、何度も登場した強敵たち。そのなかでも中世以降、特に深刻な脅威となったのがイスラーム世界の新勢力セルジューク朝でした。彼らの登場によって、帝国の東側はまさに地殻変動のような衝撃を受けることになります。
そして、セルジューク朝は「アナトリアへの侵入」「マンジケルトの戦いでの大勝利」「帝国内部の混乱の引き金」となって、東ローマ帝国に決定的な打撃を与えました。では、この勢力が何者で、どんな影響を及ぼしたのかを見ていきましょう。
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まずは、この王朝がどんな勢力だったのか、その出自を簡単に整理しておきましょう。
セルジューク朝はオグズ系トルコ人の一派で、中央アジアの草原地帯から西へと移動してきた遊牧騎馬民族です。
イスラームに改宗したあと、10世紀末にはイランやイラク、シリアに広がり、巨大なイスラーム帝国を築き上げました。
当時、イスラーム世界はアッバース朝カリフの権威が落ち、各地がバラバラに分裂していました。
そこへ現れたセルジューク朝は「スルタン」の称号を持ち、イスラームの軍事的指導者として急成長。
とくに11世紀半ばのトゥグリル・ベクやアルプ・アルスラーンの時代に最盛期を迎えます。
セルジューク朝と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が激突するのは、アナトリア(小アジア)をめぐる戦いがきっかけでした。
セルジューク朝は11世紀に入ると、アルメニアやアナトリア東部へ定期的な襲撃を開始。
これは略奪目的だけでなく、定住を見据えた本格的な移動だったんです。帝国の東の守りは次第に揺らぎ始めます。
ビザンツ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは、これ以上の侵入を防ぐため自ら出陣しますが、セルジューク軍に大敗。しかも皇帝は捕虜となるという衝撃的な結末に。
この戦いで、ビザンツはアナトリア内陸部をほぼ失い、帝国の“心臓部”が切り取られる形となったのです。
セルジューク朝の台頭は、軍事的な問題にとどまらず、ビザンツ帝国の内政や国際関係にも深刻な影響を及ぼしました。
ロマノス4世の敗北後、帝国内では皇位を巡る争いが激化し、政治がどんどん不安定に。
地方貴族の力が増し、中央政府の統制力は見る見るうちに落ちていきました。
弱体化した帝国は、ついにローマ教皇に救援を要請。これがきっかけとなって1096年に第1回十字軍が始まるのです。
つまり、セルジューク朝の脅威が、ヨーロッパを巻き込んだ十字軍という一大運動の引き金にもなったんですね。
セルジューク朝って、ただの「東の敵」じゃなくて、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の地図と政治体制そのものを揺るがす存在だったんですね。
このように、彼らの登場は、帝国の歴史を大きく変えるターニングポイントだったのです。