
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)最後の皇帝といえば、コンスタンティノス11世パレオロゴス。
彼は1453年、コンスタンティノープルの城壁で剣を手に取り、オスマン帝国の猛攻を前に命を落としました。
その最期の姿は「英雄」として語られがちですが、彼の治世には功績と限界の両方があったんです。
結論からいえば、ビザンツ帝国最後の皇帝・コンスタンティノス11世の“功”は、都市防衛と国民の結束に尽力した姿勢にあり、“罪”は、国際支援の調整失敗と経済的限界の中で打つ手を見出せなかった点にあったのです。
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まずは彼の基本的なプロフィールと、どういう時代に即位したのかをおさらいしましょう。
本名はコンスタンティノス・ドラガセス・パレオロゴス。
パレオロゴス朝の一員で、帝国の末期にはモレアス専制公国の支配者として地方統治の実績を持っていました。
1449年、兄ヨハネス8世の死去後、帝位を継承。
この時点で帝国の領土はコンスタンティノープルとその周辺+ペロポネソス半島の一部しか残っていませんでした。
絶望的な状況のなかでも、彼が成し遂げたことはたしかにあったんです。
皇帝になる前、モレアス地方で防衛網の整備や土地制度の安定化を図り、 一時的にはオスマン勢力からの独立色を強めることにも成功しています。
教会合同問題をめぐり、ローマ教皇に協力を申し出て西欧からの軍事援助を引き出そうと奔走。
結果的にほとんどの支援は実現しなかったものの、彼の努力は最後の可能性に賭けた戦いだったとも言えます。
1453年のオスマン帝国による包囲戦では、王冠を脱ぎ、剣を手に兵士とともに城壁で戦いました。
死体は見つからず、伝説化されたことで、後世のギリシャ人にとって「復活を待つ皇帝」として神格化されます。
とはいえ、彼の統治が「完璧だったか」と言われれば、決してそうではありません。
西欧の援助を引き出すためにローマ教皇と“教会合同”を進めましたが、 これが東方正教会内部の反発を招き、市民の間で深い亀裂が生じました。
「敵(イスラーム)よりもカトリックの支配のほうが恐ろしい」とまで言う人もいたのです。
ヴェネツィアやジェノヴァからはわずかな支援艦隊しか届かず、 西欧の大国(フランス、神聖ローマ帝国、イングランドなど)は十字軍を起こす動きすら見せませんでした。
外交交渉は尽力したものの、効果的な連携を構築できなかったという限界がありました。
もはや首都を守る兵士は5,000人足らず、食料や武器も不足。
城壁の補修もままならず、守りきるにはあまりにも体力が尽きていたのです。
彼の死は、帝国の終焉であると同時に、新たな神話の始まりでもありました。
コンスタンティノス11世の名前は、偶然にも“初代”ローマ皇帝コンスタンティヌス1世と同じ。
このことが、「ローマはコンスタンティヌスで始まり、コンスタンティヌスで終わった」という象徴的な語りを生むのです。
ギリシャ正教世界では、彼が死んだのではなく大理石になって眠っているという言い伝えが残り、 いつか再びビザンツが甦るとき、彼も目覚めて祖国を導く…と信じられています。
このように、ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世には、英雄的な側面と、どうしようもなかった現実のはざまで苦悩する姿が共存していました。
功罪入り交じった彼の統治こそが、「帝国の終焉にふさわしい静かなドラマ」だったのかもしれませんね。