
ビザンツ帝国とエジプトの関係は、最初こそ“支配する側とされる側”でしたが、やがて“宗教と文化のねじれ”を抱えた微妙な関係に変化していきます。エジプトは帝国の要だったけど、最後はビザンツの手を離れていったんです。
この記事では、ビザンツとエジプトがどんなふうに関わり合い、どこで分かれていったのか、その流れを追っていきますね!
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ビザンツとエジプトの関係は、そもそもローマ帝国時代からの“筋金入り”なんです。
エジプトは、ナイル川の豊かな恵みで帝国随一の穀倉地帯でした。
ローマ時代からコンスタンティノープルにいたるまで、エジプトの小麦は都市生活を支える命綱だったんです。
つまり、エジプトを支配しているかどうかは、ビザンツの都市経済に直結する問題だったということですね。
エジプトは、早い時期からキリスト教の一大中心地でした。
中でもアレクサンドリア総主教座は、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ重要拠点。
教育や神学研究が盛んで、ビザンツにとっては“宗教の頭脳”みたいな場所だったんですね。
仲良くやってたはずのビザンツとエジプト、でも宗教がらみでだんだんとギクシャクしていきます。
エジプトでは、キリストの神性と人性について単性論(キリストは神の性質のみ)を信じる人が多かったんです。
でもビザンツ帝国は両性論(神と人、両方の性質)を支持。
この違いが決定的で、帝国とエジプトの教会がぶつかり合うようになっちゃったんです。
その結果、エジプトでは独自にコプト正教会が形成され、ビザンツ正教会とは別の道を歩むことに。
つまり、同じ“キリスト教”なのに、帝国とエジプトでは信じ方が違ってしまったわけですね。
これが後の“離反”の伏線になっていきます。
最終的に、ビザンツはエジプトを維持できなくなり、まったく別の支配者が現れることになります。
ビザンツがササン朝や内乱でバタバタしてる間に、アラブ軍がエジプトに侵攻。
641年、ついにエジプトはイスラム帝国(正統カリフ朝)の支配下に入ります。
コンスタンティノープルの食料供給源を失ったのは、ビザンツにとってかなりの痛手でした。
皮肉なことに、ビザンツよりもイスラム支配下の方が、コプト教徒にとっては宗教的に自由だったとも言われています。
ビザンツは宗教統一にこだわったけど、イスラム政権は異教徒の保護(ジズヤ=人頭税を払えばOK)という形で、一定の共存があったんですね。
ビザンツ帝国にとって、エジプトは最初は“宝物”のような存在だったけど、宗教と文化のズレがじわじわ広がって、最後には手放さざるをえなかったんですね。
それでも、アレクサンドリアの知恵や信仰の伝統は、ビザンツ世界にずっと影響を与え続けました。
このように、ビザンツとエジプトの関係は“蜜月からすれ違い、そして別離へ”という、人間関係のような歴史だったんです。