
西ローマ帝国がゲルマン人の大移動によって崩壊したのは有名なお話ですが、じゃあ東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はどうだったの?って気になりますよね。
結論からいえば、東ローマ帝国もゲルマン人の侵攻を受けましたが、西ローマとは違い、それを“うまくいなして”生き残ることに成功したのです。ここではどんなふうに対応したのか、そしてなぜ東だけが持ちこたえたのかを見ていきましょう。
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まずは「ゲルマン人、ほんとに来てたの?」ってところから確認していきます。
4世紀後半、東ローマ帝国は西ゴート族や東ゴート族といったゲルマン系民族とたびたび接触します。
中でも有名なのが378年のアドリアノープルの戦い。この戦いでは皇帝ヴァレンスが戦死するという衝撃の展開に。
この事件をきっかけに、帝国はゲルマン人を「敵として撃退する」のではなく、「兵士や土地の担い手として受け入れる」方向へと舵を切っていきました。
ゴート人は帝国の軍に組み込まれ、将軍や護衛隊長など重要ポストに就くことさえあったんです。
じゃあなぜ東ローマ帝国は、西ローマと違ってゲルマン人に潰されなかったのか?その理由は“バランス感覚”にあります。
戦うところは戦い、譲るところは譲る。この柔軟な戦略が東ローマ帝国の強みでした。
たとえば「連邦民(フォエデラティ)」という仕組みで、ゲルマン系の部族を半ば自治的に扱いつつ、自軍の一部として動員したんですね。
西ローマの都ローマは陥落しましたが、コンスタンティノープルは頑丈な城壁に守られ、ゲルマン人も手出しできず。
特にテオドシウスの三重城壁は、何世紀にもわたってあらゆる外敵を寄せつけませんでした。
ゲルマン人との関係は、一時的な脅威にとどまらず、帝国の内外にさまざまな変化をもたらしました。
ゲルマン系の将軍や部隊が軍で力を持つようになると、軍事貴族(ストラテゴス)が帝国の政治にも影響力を持つようになっていきました。
これが後の軍人皇帝の登場や、地方軍閥の強化にもつながっていきます。
ゲルマン人がビザンツ文化に取り込まれる一方で、彼らの戦闘スタイルや部族的組織文化も帝国にじんわりと影響を与えていきました。
このあたり、異文化とどう共存するかに関して、ビザンツは西よりも一歩進んでいたとも言えるかもしれません。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)も、ゲルマン人の大移動という激動の時代にしっかり巻き込まれてたんですね。
このように、「侵攻=崩壊」じゃなく、知恵と工夫で乗り越えたところに、ビザンツのしぶとさがあるのです。