
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)において、異端とされたキリスト教の宗派――じつはけっこうたくさんあるんです。
しかもその多くは、ちょっとした教義の違いから始まったのに、帝国内を二分する大問題にまで発展することも。
結論からいえば、ビザンツ帝国で異端とされた主な宗派には、「アリウス派」「ネストリウス派」「単性論(モノフィシス派)」「モノテリスモス派」などがあり、それぞれがキリストの本性や神性をめぐって、正統派(正教)と深い対立を生んだという歴史があるのです。
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これが異端認定第1号。問題の発端は、「キリストは神か、人か?」という根本的な問いでした。
アレクサンドリアの司祭アリウス(250頃–336)が唱えたのは、 「キリスト(子)は神によって創られた存在で、父なる神より格下である」という教え。
これは神の“唯一性”を守ろうとする意図があったんですが、正統派からすると「三位一体を否定してる!」と大問題に。
325年、皇帝コンスタンティヌス1世が召集したニカイア公会議でこの説は否定され、 「キリストは父と同質(ホモウシオス)である」との教義が確立。
ここから「正統」と「異端」のラインが引かれ始めたわけです。
次は「マリアって“神の母”って言っていいの?」という、ちょっと繊細な問題から発展した論争です。
コンスタンティノープルの総主教だったネストリウス(386–451)は、 「イエスには神としての位格と人としての位格があり、それぞれが分かれている」と主張しました。
だからマリアを「神の母(テオトコス)」と呼ぶのは適切じゃない、と。
431年のエフェソス公会議では、ネストリウス派の説はキリストの統一性を壊すとして異端に認定。
ネストリウス派は追放され、のちにペルシアや東方へと広がっていくことになります。
これはネストリウス派とは逆に、「神性と人性はもう一つに溶け合ってる」という主張。
アレクサンドリアのキリスト教徒たちは、「神が人間になったなら、もう人としての性質は消えてる」と考えました。
つまり、イエスの人間性は神性に吸収されて消えてる=単性論。
451年のカルケドン公会議で、この説はキリストの両性(神性+人性)を認める正統信仰に反するとされ、異端認定。
でも、シリアやエジプト、アルメニアなどでは単性論が根強く残り続け、今でもコプト正教会やアルメニア使徒教会にその影響が残っているんです。
キリストには「性質」が二つあるとしても、「意志」はどうなの?という、さらに深掘りした議論。
7世紀、皇帝ヘラクレイオスの時代に、「神性と人性は持つが、意志(テレマ)だけは神のもの」というモノテリスモスという折衷案が登場。
680〜681年の公会議で、「キリストには神の意志と人の意志が両方ある」という立場が確定。
モノテリスモス派もまた異端の烙印を押されました。
ビザンツ帝国では、こうした宗派に対してかなり厳しい姿勢をとってきました。
ビザンツ皇帝たちは、異端問題に対して軍事・政治・神学のすべてを動員して対処。
公会議の開催、宗派弾圧、指導者の追放など、帝国の安定=信仰の統一という考え方が根底にありました。
ただし、帝国内のすべての人々が「正統」を受け入れたわけではなく、異端認定された宗派が根を下ろした地域では、ローマと地方の宗教的対立が長期化。
それがのちの分裂や分離独立運動の遠因になることもありました。
ビザンツ帝国にとって“異端”とは、単なる信仰のズレではなく、国家の安定と皇帝の権威を揺るがす存在だったんですね。
このように、宗教をめぐる神学論争は、ビザンツの歴史と政治を動かす大きなファクターとなっていったのです。