
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が1000年も続いた理由のひとつは、なんといってもその独特な軍事制度にあります。西ローマがあっという間に崩壊したのに対し、東がここまで持ちこたえたのは、戦い方と軍の運用に柔軟さと工夫があったからなんです。
そして、東ローマ帝国の軍事制度は、「機動性のある地方軍」「多国籍傭兵の活用」「堅牢な首都防衛戦略」が特徴でした。では、その実態をもう少しわかりやすく見ていきましょう。
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まずは、帝国の広い領土をどう守っていたのかについてです。
7世紀頃から始まった制度で、帝国の領土を「テマ(軍管区)」という単位に分けて、軍人たちに土地を与え、そこで自給自足しながら防衛にあたらせました。
つまり、兵士は農業もしつつ、自分の地元を守る「地産地防」のスタイル。これがかなり長持ちしたんです。
テマごとにストラテゴスと呼ばれる将軍がいて、軍と行政の両方を仕切っていました。
だからこそ、素早い対応ができたし、中央からの命令を待たずに局地戦をこなすことができたんですね。
ビザンツ帝国の軍は「国民皆兵」ってわけではなく、あらゆる手段で兵力を確保していました。
中心となるのはタグマと呼ばれる皇帝直属の精鋭部隊。これは主に首都と皇帝の護衛に使われました。
一方で、外部から雇った傭兵部隊も多く、ノルマン人やヴァリャーグ人、さらにはトルコ系の騎兵まで取り入れていたんです。
重装歩兵だけじゃなく、騎兵、弓兵、投石兵などバランスのとれた部隊構成が特徴。
状況によって異なる兵種を組み合わせ、柔軟に対応する力がありました。
帝国の命綱とも言えるコンスタンティノープルの守りには、特別な工夫が施されていました。
5世紀に築かれた三重の城壁が、コンスタンティノープルを鉄壁の都市に変えました。
この城壁は火砲が登場するまで破られたことがなく、何度も異民族の侵攻を跳ね返してきたんです。
ビザンツ独自の火炎兵器で、海戦では圧倒的な威力を誇りました。
とくに船から火を噴き出す「ギリシア火」は敵艦隊を混乱に陥れ、制海権を守るのに一役買っていたんです。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の軍事制度って、単なる兵の多さよりも「どう使うか」「どう守るか」を突き詰めたシステムだったんですね。
このように、戦略と柔軟さを組み合わせた仕組みこそが、帝国の長寿の鍵だったのです。