
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とイタリアの関係って、かなり複雑で長〜いんです。
もともとローマ帝国の“本家”だったイタリアですが、西ローマが滅びたあと、その“後片づけ”に乗り出したのが東ローマ帝国。
結論からいえば、東ローマ帝国とイタリアの関係は、「再征服と支配」「教皇との微妙な協力関係」「貿易を通じたつながり」「文化の影響」という多層的な関係で成り立っていました。では、その経緯を時代順に整理していきましょう。
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まずは、東ローマが“イタリアに戻ってくる”ところから見てみましょう。
6世紀、皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527–565年)は「ローマ帝国の版図を取り戻すぞ!」と意気込み、
名将ベリサリウスを派遣してイタリアを征服。ゴート戦争(535–554年)によって東ゴート王国を打倒し、
イタリアの大部分を再びローマ帝国領(=東ローマ領)にしたんですね。
再征服後、イタリア統治の拠点として設けられたのがラヴェンナ総督府。
ここを中心に、東ローマは南イタリアや中部イタリアの支配を維持しようとします。
イタリアにはローマ教皇がいます。となると、やっぱり東ローマと教会の関係も気になりますよね。
当初、教皇は東ローマ皇帝を「キリスト教世界の守護者」として頼っていました。
でもやがて、皇帝が宗教問題(聖像破壊運動など)に強く介入してくると、教皇側は反発。
ついにはフランク王国(カール大帝)と手を結ぶようになります。
教皇レオ3世がカール大帝に「ローマ皇帝」の冠を授けたことで、ローマ皇帝が二人いるという“ややこしい状況”に。
これが西ローマ帝国の復活(神聖ローマ帝国の前身)につながり、ビザンツとラテン世界の亀裂がさらに深まっていきます。
軍事や政治だけじゃなく、文化・商業面でもつながりがあったんです。
ビザンツ支配下では、イタリアの一部都市でギリシア語が使われたり、ビザンツ式のモザイクや聖堂建築が取り入れられました。
特にラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂などはその代表例ですね。
中世後期になると、ビザンツとヴェネツィア・アマルフィ・ジェノヴァなどの商人たちとの交易が活発に。
特にヴェネツィアは、東ローマから貿易特権を得て急成長しました。これがのちに“あの事件”につながるんです…。
最悪の“仲違い”は、やっぱりこの事件です。
本来イスラム世界と戦うはずだった第4回十字軍が、ヴェネツィア商人に操られてビザンツに侵攻。
ついに首都コンスタンティノープルを略奪・占領してしまいます。これがいわゆる「ラテン帝国の成立」です。
この事件以降、ビザンツは大打撃を受けて回復不能に。
一方でイタリアの都市国家たちは、地中海貿易を支配して中世の覇者へと成長していきました。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とイタリアの関係は、「かつての主」と「かつての領地」というだけじゃなく、
宗教・軍事・経済・文化のあらゆる面で深く絡み合っていたんですね。
このように、二つの地域の間には“ローマ”という名前以上に濃密なつながりがあったのです。