
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と東ゴート王国の関係――これはまさに「ローマの後継者は誰だ?」というテーマをめぐる、ちょっと複雑で見応えのあるやりとりなんです。
結論からいえば、東ローマ帝国と東ゴート王国の関係は、「形式的な協調」と「実質的な対立」が入り混じり、最終的にはユスティニアヌス1世の再征服戦争(ゴート戦争)によって衝突・崩壊へと至る関係でした。では、もう少し細かくその関係を見ていきましょう。
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西ローマ帝国が476年に滅んだあと、イタリアを支配したのが東ゴート族です。 でもいきなり敵になったわけではありません。
東ゴート王テオドリック(在位:493–526年)は、東ローマ皇帝ゼノンの命を受けて、 イタリアのオドアケル政権を倒し、そのあと“皇帝の名代”としてイタリアを治めました。 つまり最初は、「ビザンツの代理人」的な立ち位置だったんです。
テオドリックは表向きはビザンツ皇帝の臣下でしたが、実際にはイタリアで独立王国として君臨。
官僚制度やローマ法を残しつつ、アリウス派キリスト教を信仰するゴート人たちの支配をうまく進めていました。
でも、次第にビザンツと東ゴートの間には亀裂が入っていきます。
テオドリックはアリウス派(異端とされた)だったため、カトリックのビザンツとは微妙な距離感。
さらに東ゴート王国では、ラテン系の知識人ボエティウスらが反逆容疑で処刑されるなど、文化的な緊張も広がっていました。
そしてやがて登場するのが、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527–565年)。
彼は「ローマ帝国の復興」を掲げて、西の旧領を再征服する計画を立て始めたのです。
ユスティニアヌス1世の登場からはもう完全に“敵同士”。ビザンツと東ゴートの全面戦争が始まります。
名将ベリサリウスがイタリアへ進軍し、東ゴート王ウィティギスと激しく交戦。
一時はローマやラヴェンナを奪還し、ビザンツの軍事力が圧倒的に見えました。
その後、ゴートの新王トーティラが盛り返すも、ビザンツ将軍ナルセスの活躍により、552年のタギナエの戦いで敗北。
こうして東ゴート王国は完全に滅亡し、イタリアは一時的にビザンツの直轄領となったのです。
ただし、ビザンツの統治がうまくいったかというと、また話は別。
20年にも及ぶ戦争で、イタリアは荒廃しきり、都市も経済もボロボロ。
その隙をついて、568年にはランゴバルド族が北イタリアに侵入し、ビザンツの支配は再び揺らぐことになります。
その後、東ゴート王国のテオドリックが、ゲルマン系支配者としては例外的にローマ的な統治を行ったことで、後世に「理想の統治者」として評価されるようになりました。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と東ゴート王国の関係は、最初は“協力関係”のようでいて、
その実、ローマ帝国の遺産を誰が引き継ぐのかをめぐる静かな主導権争いだったんですね。
このように、表の言葉と裏の思惑が交差する関係こそ、古代末期ヨーロッパの面白さなのです。