
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と十字軍国家――これ、同じキリスト教圏の仲間同士だった…と思いきや、実は協力と裏切りが入り混じった、すっごく微妙な関係なんです。
結論からいえば、東ローマ帝国と十字軍国家の関係は、「一時的な軍事協力」「領土・支配権をめぐる対立」「宗教的・文化的な摩擦」を伴う、“ぎこちない同盟”とも言える関係でした。では、十字軍国家とビザンツ帝国がどう関わり、どんなドラマがあったのかを時代順に追ってみましょう。
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まずは最初の出会い。ここはまだ、お互いにとって「利害が一致した」時期でした。
1095年、ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスが、西ヨーロッパの教皇や諸侯に支援を要請。
セルジューク朝に奪われた小アジアの回復が目的だったのですが、これが第1回十字軍を引き起こすきっかけになります。
十字軍はコンスタンティノープルで皇帝に忠誠を誓い、「奪った土地はビザンツに返還するよ」という協定を結びます。
最初のうちはこの約束も守られ、ニカイアやアンティオキアといった都市がビザンツの手に戻りました。
でも、ここからお互いの関係が怪しくなっていきます。
十字軍の有力者ボエモンは、アンティオキアを自分のものにしようとして、皇帝との約束を無視。
こうしてアンティオキア公国が成立し、ビザンツの“後ろから刺された”気分が広がります。
エルサレム王国、トリポリ伯国、エデッサ伯国なども、形式上は“キリスト教の同盟国”ですが、ビザンツの指導権は完全に無視されるようになります。
裏切られても、ビザンツは“東方の知恵”でうまく外交を続けていきます。
とくにエルサレム王国との間では、貿易や使節の交流が続いており、 ここを“緩衝地帯”として扱いながら、マムルークやセルジュークに対抗していくんです。
ただし、西欧のラテン人たちはギリシア語・ビザンツ正教の文化に不慣れで、教会の儀式や神学を「異質」と感じていました。
一方、ビザンツ側は「未開なラテン人がやってきた」くらいの目線で見ていて、お互いの間に宗教的なプライドの衝突があったんですね。
そして、ビザンツと十字軍国家の関係をズタズタに壊す“事件”が起こります。
第4回十字軍は、目的地を聖地エルサレムではなく、なんとコンスタンティノープルに変更。
ヴェネツィアの思惑やビザンツ内の皇位継承争いに巻き込まれ、十字軍が首都を攻撃・略奪するという最悪の事態に…。
これによってラテン帝国が成立し、ビザンツ帝国は一時的に崩壊。
ニカイア、トレビゾンドなどの亡命政権が細々と抵抗を続け、1261年にようやく帝都を奪還しますが、もとの勢いを取り戻すことは最後まで出来なかったのでした。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と十字軍国家の関係は、最初こそ“共通の敵”を持つ同盟者同士だったのに、
その後は裏切りと誤解が積み重なって、ついには帝国の心臓部を乗っ取られるまでに悪化していったんですね。
このように、キリスト教世界の“内ゲバ”こそが、ビザンツ衰退の大きな要因のひとつだったのです。