
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とモンゴル帝国――この組み合わせ、ちょっと意外に感じるかもしれませんよね?
でも実は、13世紀にお互いが「生き延びる術」を模索するなかで、接触と関係構築がちゃんと行われていたんです。
結論からいえば、東ローマ帝国とモンゴル帝国の関係は、「軍事的な脅威を意識した上での外交的な接近」「共通の敵(イスラーム勢力)への対応」「十字軍世界との交差」という側面を持った、短期ながら戦略的な関係でした。では、その背景と実態を詳しく見ていきましょう。
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まずは両者が接触する以前、ビザンツ側がモンゴルをどう見ていたのか、そこから整理してみましょう。
13世紀初頭、チンギス・ハンのもとで急速に領土を広げたモンゴル帝国。
バグダッド、キプチャク草原、ルーシ(ロシア)などを制圧し、西アジアにどんどん迫っていきました。
当時の東ローマ帝国はパレオロゴス朝の時代。1261年、ミカエル8世パレオロゴスがラテン帝国を打倒し、帝都コンスタンティノープルを奪還した直後の不安定な時期でした。
すでに東西教会の対立、ラテン勢力との抗争、セルジューク朝やマムルーク朝との対立も抱えており、新たな“東方の大勢力”モンゴルの動きにビザンツも警戒心バリバリだったんですね。
しかし、ただ警戒するだけでなく、東ローマは能動的にモンゴルと接触をはかります。
ビザンツ帝国がラテン帝国によって一時的に追われ、ニカイア帝国(1204–1261年)に後退していた時期、
皇帝ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスは、モンゴル帝国の西方勢力(主にイルハン朝)に接近し、使節の交換を始めたんです。
1260年代以降、ミカエル8世パレオロゴスも、イルハン朝フレグ家との外交関係を積極的に進めました。
このときのテーマは明確で、「共通の敵=マムルーク朝」への対応という実利的なものだったんです。
東ローマとモンゴルを近づけた最大の理由が、イスラーム勢力の脅威でした。
1258年にバグダッドを攻略したモンゴル軍(フレグ)は、イスラム世界に衝撃を与えます。
ですが、その直後のアイン・ジャールートの戦い(1260年)でマムルーク朝に敗れ、西進の勢いが一時止まるんですね。
当時のビザンツ、そして西ヨーロッパ諸国(フランスなど)は、モンゴルと対マムルークの共同戦線を模索していました。
この連携は実際にいくつかの使節交換や軍事同盟の打診という形で進められましたが、最終的に本格的な共同戦争には至らずに終わっています。
短期的な関係だったとはいえ、いくつかの交流も見られました。
モンゴルの平和時代(「パクス・モンゴリカ」)には、シルクロードが安全になり、東ローマもそこから中国・中央アジアの情報や物資を得ることができました。
また、地中海貿易に関わるジェノヴァ・ヴェネツィアといった都市国家を通じ、間接的にモンゴル圏と商業ネットワークがつながっていたんです。
興味深いことに、イルハン朝の一部支配層は、ビザンツを古代ローマの末裔として尊重し、外交的には「ローマ皇帝」として扱っていた形跡もあります。
この点で、ビザンツの“文化的オーラ”はモンゴルにも影響を与えていたんですね。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とモンゴル帝国の関係は、意外なようで、実は時代の空気にちゃんと呼応していた“戦略的接近”だったんですね。
このように、共通の敵や外交の妙を通して、一時代の中でしっかりと存在感を放った関係だったのです。