
「市民権」って聞くと、古代ローマの“トーガを着た市民”みたいなイメージがあるかもしれませんが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にもちゃんと市民権は存在していたんです。
ただしその意味や扱いは、古代ローマ時代とはだんだん変わっていきます。
結論からいえば、東ローマ帝国の市民権は「ローマ法に基づく身分上の地位」として広く認められており、出生、自由民としての登録、または皇帝の特別許可によって取得できました。では、その制度の中身をもう少し分かりやすくご紹介していきますね。
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そもそも「市民権」とは何を指していたのか、基本から見てみましょう。
市民権(civitas)は、もともとローマ帝国時代において法の保護を受ける資格のことを意味していました。
訴訟を起こす権利、契約を結ぶ権利、土地所有の権利など、生活のあらゆる面で“公的に認められた存在”になるために欠かせないものだったんです。
実はローマ帝国時代、カラカラ帝の勅令(アントニヌス勅令)によって、帝国領内のすべての自由人に市民権が与えられるようになりました。
東ローマ帝国もこの路線を引き継ぎ、自由人であれば原則的に市民権を持つという前提で社会が動いていたんです。
では、どうすれば「市民」として認められたのでしょうか?いくつかの方法があります。
両親のどちらか、または父親が東ローマ帝国の市民であれば、その子も市民権を自動的に受け継ぎました。
いわゆる「血統主義」に基づいたパターンですね。
奴隷が主人から解放されると、その人は「解放奴隷」として自由民の地位を得ることになります。
そしてこのとき、一定の条件を満たせば市民権も一緒に与えられることがあったんです。
学者、官僚、外国の功労者などに対しては、皇帝が特別に市民権を授けることもありました。
これは名誉的な意味合いが強く、“帝国に仕えた証”として市民の仲間入りを認めるというスタイルでした。
じゃあ実際に市民権があると、どんな特典があったのでしょうか?
土地や家屋など不動産の所有権が認められ、売買契約を合法的に結べるようになります。
市民でなければ、財産の保有や相続もスムーズにはいかなかったんですね。
法廷で正式に争うことができるのは、基本的に市民権を持つ者に限られていました。
自分の権利を守るには、まず「市民」であることが大前提だったというわけです。
市民でなければ軍人や官僚としての任用も制限されていました。
逆にいえば、帝国に奉仕する人材は“市民としての責任”と“権利”をセットで持っていたということなんですね。
ただし、時代が進むにつれて「市民権」の重みや意味合いも少しずつ変わっていきます。
中世ビザンツ社会では、全体として「市民=自由人」という認識が強くなり、法的な細かな権利よりも奴隷か自由人かという身分の違いが重視されるようになっていきました。
市民といっても、貴族階級や教会関係者と比べると政治的発言権は弱く、基本的には“皇帝に従う庶民”として扱われることが多かったんです。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)でも、市民権は社会の仕組みを支える大切な柱だったんですね。このように、「市民であること」は権利と義務のパスポートのようなものであり、帝国の中で生きる“資格”だったのです。