
「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)ってキリスト教の国だし、奴隷とかいなかったんじゃない?」と思った方、実はそれがちょっと違うんです。
結論からいえば、東ローマ帝国にも奴隷制度は存在し続けており、古代ローマの伝統を引き継ぎつつも、キリスト教や社会構造の変化によってそのあり方は徐々に“ゆるやかに”変化していきました。では、どんな人たちが奴隷になっていたのか、どんな役割を担っていたのか、そして制度がどう変わっていったのかを見てみましょう。
|
|
まずは、東ローマ帝国における奴隷って、どういう存在だったのか?というところから押さえていきましょう。
ビザンツでも奴隷(ドゥーロス)は法的には所有物、つまり“人間というより財産”とされていました。
売買・譲渡・相続の対象になり、主人の意志ひとつで運命が左右される立場だったんです。
奴隷は農業、商業、家庭、宮廷などさまざまな分野で働いていました。
とくに富裕層や官僚層の家では、家事労働・教育係・会計係など、まるで執事のような働き方をしていた人もいたんですよ。
では、どうやって人々は奴隷になってしまったのでしょう?そこにはいくつかのパターンがありました。
戦争に負けた側の住民が奴隷として連れてこられる、というのが古典的なパターン。
特にアラブ・スラヴ・トルコ系の地域から、たびたび捕虜が帝国に連行されました。
財産を失い、借金返済のために自分や家族を奴隷として差し出すケースもありました。
貧困層にとって、奴隷化は“最終手段”のような側面もあったんです。
奴隷の子どもは、基本的に親と同じ身分になります。だから、世代を超えて奴隷の地位が続くこともあったんですね。
ここがちょっと複雑なところ。キリスト教は「すべての人は神の前で平等」と教えるのに、なぜ奴隷制度を許容していたのでしょうか?
ビザンツ帝国のキリスト教会は、奴隷制度を罪とまでは断定しませんでした。
むしろ、「主人は奴隷を寛容に扱うべき」「奴隷も忠実であれ」といったかたちで、制度の“中での徳”を重んじたんです。
ただし、奴隷であっても洗礼を受けてキリスト教徒になることは可能でした。
ある意味、“魂の平等”は認められていたということですね。
時代が進むにつれて、奴隷制度の形も徐々に変わっていきます。
中世になると、奴隷よりも土地に縛られた小作農(コロヌス)の比率が増えていきます。
彼らは形式的には“自由人”ですが、経済的にはほぼ奴隷に近い存在だったとも言われています。
10世紀ごろになると、皇帝直属の護衛や軍人として奴隷出身者が抜擢されることも。
彼らは主人への忠誠を武器に、時には高官に出世する例もあったんです。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)でも、奴隷制度はずっと残っていたけど、その形や意味は時代とともに少しずつ変化していったんですね。
このように、古代の伝統を受け継ぎつつ、キリスト教的な価値観とも折り合いをつけながら続いていた制度だったのです。