
かつて一つだったローマ帝国が、なぜ「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」に分かれてしまったのか。その分裂は一時的な措置のはずが、やがて決定的な分岐点となり、世界史を大きく動かすことになりました。
分裂の背景には「行政の効率化」「経済力と文化の差」「外敵からの圧力」がありました。それぞれの要因がどう絡み合って、帝国を二つに引き裂いていったのかを見ていきましょう。
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広すぎるローマ帝国をどうやって統治するか—それが最初の問題でした。
3世紀末、皇帝ディオクレティアヌスは帝国を東西に分け、共同統治体制(テトラルキア)を導入しました。
これによって、それぞれの地域をより効率的に治めようとしたんです。
その後、コンスタンティヌス1世が帝国の再統一を果たすも、再び分割統治の方向へ。
結果的に、395年のテオドシウス1世の死後、彼の二人の息子によって帝国は東西に正式に分けられることになります。
同じ帝国でも、東と西では抱える事情がまったく違っていました。
東ローマ帝国は豊かな農業地帯と貿易路を持ち、経済的に安定していました。
一方、西ローマ帝国は税収も少なく、都市も衰退傾向にあったんです。
東ではギリシア語が主流で、古代ギリシアの文化や哲学が色濃く残っていました。
西ではラテン語を中心にローマ的な文化が支配的で、そもそも言語や価値観からして違っていたのです。
外からの攻撃が、帝国の分裂と弱体化をさらに進めていきました。
西側ではゲルマン民族の大移動により、防衛線がズタズタに。
これにより、5世紀には西ローマ帝国は急速に力を失っていきました。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、財政的余裕や戦略的な首都コンスタンティノープルのおかげで持ちこたえることができました。
西との軍事的な格差が、結果的に分裂を決定づけたともいえるでしょう。
東ローマ帝国と西ローマ帝国の分裂は、ただの「地理的な線引き」ではなく、それぞれの事情や力の差が生んだ必然の結果だったんですね。
このように、帝国の巨大さゆえの分裂が、やがて歴史の大きな転換点になったのです。