東ローマ皇帝「ゼノン」の生涯と功績

東ローマ皇帝の中でも、とりわけ混乱の時代を生き抜いた“しぶとい皇帝”として知られるのが、ゼノン(在位474–475、476–491)です。
西ローマ帝国の滅亡と同時期に東側を統治していた彼は、決して華やかではないけれど、帝国の屋台骨を守り抜いた人物だったんですよ。
結論からいえば、東ローマ皇帝ゼノンの功績は、「西ローマ滅亡後も帝国を存続させた外交手腕」「内乱・陰謀の嵐を乗り越えた政治力」「異端と教会の関係調整」など、激動期における“粘り強い統治”にあったのです。

 

 

ゼノンってどんな人?

まずは彼の出自と、どうやって皇帝にまでのぼりつめたのかを見ていきましょう。

 

イサウリア人という“異邦出身”

本名はタラシコス。現在のトルコ南東部・イサウリア地方の出身で、 軍人として台頭したのち、東ローマ皇帝レオ1世の娘アリアドネと結婚し、宮廷の一員となります。 このとき「ゼノン」というギリシャ風の名前に改名。

 

義父レオ1世の後継者に

471年に娘婿として政治の中枢に食い込むと、レオ1世の死後、 彼の子(ゼノンの息子)レオ2世の摂政を経て、474年に単独皇帝へと即位しました。

 

なぜ“しぶとい皇帝”と呼ばれるのか?

ゼノンの治世は、とにかく内外の問題だらけ。でも彼は、意外にもそれらを一つひとつ乗り越えていきました。

 

① 西ローマ帝国の“ソフト着地”

475年、西ローマの皇帝ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン傭兵隊長オドアケルに退位させられ、 いわゆる“西ローマ帝国の滅亡”が起こります。

 

ゼノンはこのとき、うろたえることなくオドアケルを「イタリア総督」として承認
形式上、西ローマの統治権は東ローマ皇帝に戻る形になり、 ゼノンの名目上の地位はローマ帝国全体の正統な後継者へと格上げされました。

 

② 内乱・陰謀の連続を生き延びた

即位直後、重臣バシリスクス(妻の兄)に裏切られ、いったん失脚しますが、 1年後には復位して冷徹な粛清と政敵排除を実行。

 

ほかにもゲルマン系の傭兵勢力、貴族の陰謀、各地の反乱に翻弄されながらも、 ゼノンは17年もの長期政権を維持することに成功します。

 

③ ゲルマン民族への巧みな外交

オドアケルの勢力が強くなりすぎると、今度は東ゴート族の王テオドリックを支援し、 イタリアに送り込んでオドアケルを倒させるという巧妙な離間策を取りました。
この結果、東ゴート王国が建ち、西側の安定も実現します。

 

宗教面での功罪もある

ビザンツ皇帝といえば宗教政策も重要。ゼノンのやったことは評価が分かれる部分です。

 

④ ヘノティコン発布(482年)

ゼノンは、カトリック(カルケドン派)とモノフィサイト派の対立を解消するため、教義の統一文書「ヘノティコン」を発布します。

 

しかしこの文書は曖昧な妥協策だったため、両派から非難を浴び、 最終的にはローマ教皇との関係も悪化(アカキオスの分裂、484〜519)することになります。

 

⑤ 教会と皇帝権の微妙なバランス

ゼノンは教会に強く干渉しすぎず、しかし皇帝の宗教的権威は維持
このスタンスが、後の“皇帝優位”の政教関係につながっていきます。

 

死とその後の評価

ゼノンは491年に死去。子がいなかったため、皇后アリアドネが次の皇帝アナスタシウス1世を選びました。

 

異民族とビザンツの間をつないだ“橋渡し役”

ギリシャ系でもラテン系でもない、イサウリア人の皇帝として、 ゼノンは「異なる文化・宗教・民族のバランス」をとる“帝国の調整者”だったともいえます。

 

伝説:生き埋めになった?

一部の逸話では、「棺の中で目覚めて棺を叩いたが、誰も助けなかった」なんていう怖い伝説も。
実話かどうかはともかく、それだけ死後にも謎が残る皇帝だったということです。

 

このように、東ローマ皇帝ゼノンは、きらびやかな改革者ではないけれど、帝国が崩壊しかけた時代に粘り強くバランスを保った“安定の職人皇帝”だったんですね。
このように、彼の地味だけど確かな仕事があったからこそ、ビザンツ帝国はその後も千年にわたり生き延びることができたのです。