
「陥落しない都市」とまで称された東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープル。三重の城壁、強固な地形、そして長年の防衛実績。まさに鉄壁そのものでした。でもそんな都市も、1453年、ついにオスマン帝国の手によって陥落してしまいます。
結論からいえば、コンスタンティノープルが陥落したのは、「軍事力と兵数の圧倒的格差」「火砲など新兵器の登場」「西欧キリスト教世界の支援不足」が重なったためです。それぞれの要因を詳しく見ていきましょう。
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まずは単純に“戦える人数”の時点で、もう勝負は見えていたとも言われています。
コンスタンティノープルを守っていたビザンツ側の兵士は約7,000人。そのうち正規兵はさらに少なく、民兵や外国人傭兵が中心でした。
しかも、城壁があまりにも長大だったため、限られた兵力では全体を十分にカバーしきれなかったのです。
攻めてきたオスマン側は、なんと10万人以上の大軍を動員。その中には整備された騎兵隊、工兵隊、そして大砲部隊まで含まれていました。
中でもスルタンメフメト2世は若き名将として、計画的かつ執拗な包囲戦を指揮しました。
どれだけ分厚い城壁でも、時代の進歩には勝てなかった—これが陥落の核心です。
オスマン軍は、巨大な攻城用の大砲(とくに「ウルバン砲」)を導入。
毎日のように城壁に砲撃を加え、次第に亀裂を生み、弱点を見極めていきました。
ビザンツ側にはそれに対抗できる火器も技術もなく、ついに「破られたことがない」はずのテオドシウスの城壁が破られてしまったのです。
ただの物理的破壊だけでなく、大砲の爆音や破壊力が防衛側の士気を削り続けました。
守る側にとっては、長い包囲のなかで毎日「どこかが崩れるかも」という不安と戦わされる日々だったんです。
ビザンツがもう少し外部の助けを得られていれば、結末は変わっていたかもしれません。
1054年の大シスマで東西キリスト教会は分裂し、カトリックと正教会は敵対関係に。
この対立が尾を引き、西欧諸国は「ビザンツのために血を流す理由がない」と冷淡だったのです。
わずかな支援部隊(ヴェネツィアやジェノヴァの傭兵など)は到着したものの、人数もタイミングも十分とはいえず、オスマン軍の圧力に対抗するにはまったく不十分でした。
コンスタンティノープルの陥落は、戦術ミスや一時の油断ではなく、時代の流れと技術革新、そして政治的孤立が重なった“必然の結果”だったんですね。
このように、どれだけ強固に見えるものでも、変化に対応できなければ崩れてしまうのです。