
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とイスラム勢力の関係は、1000年以上の歴史の中でずーっと続いた、緊張と対立、そして時々協力もあった複雑なものです。
結論からいえば、ビザンツとイスラム勢力の関係は「国境での対立」「宗教的な敵対」「外交と交易を通じた共存」の三本柱で成り立ち、互いに影響し合いながら中世世界の秩序を形づくっていきました。では、その歴史をちょっとずつひも解いていきましょう。
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7世紀にイスラム教が登場したとき、真っ先にその影響を受けたのがビザンツ帝国だったんです。
イスラームが誕生してすぐ、アラブ帝国(正統カリフ時代→ウマイヤ朝)が急拡大。
ビザンツ帝国はシリア・パレスチナ・エジプトといった肥沃で重要な地域を一気に失ってしまいました。
これがビザンツの「縮小と防衛」の時代の始まりです。
イスラム勢力は首都コンスタンティノープルも攻めました。特に第二次包囲戦では、ビザンツの秘密兵器「ギリシアの火」が大活躍。
この防衛成功によって、イスラームのヨーロッパ侵攻がいったん食い止められたんですね。
8〜10世紀は、今でいう“国境警備”のような地道な小競り合いが日常茶飯事でした。
アナトリア高原のテマ制が整備され、イスラム勢力との緩衝地帯として機能。
アラブ軍とビザンツ軍は、互いの村を襲ったり、略奪したり、捕虜を交換したり――“戦争と和平の繰り返し”という感じでした。
9〜10世紀にはビザンツが反撃に転じ、ニケフォロス2世フォカスやヨハネス1世ツィミスケスらが、イスラーム支配地域を奪還していきます。
特にシリア北部の都市(アンティオキアなど)を取り戻したのは大きな勝利でした。
いつも戦ってたのかというと、そんなこともありません。意外と仲良くしてた時期もあるんです。
アッバース朝とは、正式な使節団の交換や捕虜交換協定が交わされていました。
戦争中でも外交官同士がお互いの宮廷文化をリスペクトし合うような、独特の雰囲気があったんです。
商人たちは現実的。敵国でも金になるなら貿易する精神で、アレクサンドリアやアンティオキアなどの都市では、
イスラム商人とギリシア商人がふつうにビジネスしてました。オリーブ油、絹、香辛料なんかが取引されていたんですね。
11世紀以降は、第三勢力「西ヨーロッパ」が十字軍として乱入してきます。
1071年のマンジケルトの戦いで、ビザンツはセルジューク朝に大敗。
これを機にアナトリアの支配権を急速に失っていきました。
十字軍の登場で、ビザンツは「西欧とイスラムの板挟み」状態に。
本来ならキリスト教勢力と手を組むはずが、第4回十字軍では逆にコンスタンティノープルを攻撃されてしまう始末…。
結果、ビザンツは弱体化し、イスラム勢力とのバランスもさらに崩れていくのです。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とイスラム勢力の関係って、ただの「敵と味方」ではなかったんですね。
このように、1000年以上にわたって、戦い、交渉し、ときに手を組みながら、中世世界のパワーバランスを形づくっていたのです。