
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とササン朝ペルシア――このふたつの大帝国は、まさに“宿命のライバル”とも言える関係にありました。
国境を接する東西の超大国として、しばしば激突しながらも、ときには和平を結び、お互いの存在を強く意識しながら長い歴史を歩んできたんです。
結論からいえば、東ローマ帝国とササン朝の関係は、「国境をめぐる軍事衝突」「宗教の違いからくる緊張」「外交・婚姻を交えた駆け引き」が繰り返される、複雑かつ継続的なパワーゲームでした。では、その実態を時代ごとに見ていきましょう。
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そもそも、どうしてこの2国はそんなにぶつかっていたのでしょうか?
パルティアを倒して誕生したササン朝は、「かつてのアケメネス朝ペルシアの再興」を目指していました。
つまり、“正統な東の帝国”を自称する勢力だったんです。
一方、西側にはローマ帝国(後に東ローマ)がいて、お互いに「本物の帝国はこっちだ!」という意識が強かったんですね。
アルメニア、メソポタミア、シリアなど、両帝国の境界に位置する地域は常に火種になっていました。
宗教や文化も異なる中で、ぶつかるのはほぼ“宿命”だったとも言えます。
この両者の関係の中心には、ほぼ絶え間ない軍事衝突がありました。
ササン朝のシャープール1世やホスロー1世などは、何度もビザンツと戦っています。
特にアンティオキアやエデッサなど、重要都市がしばしば奪い合いの舞台に。
でも、ずっと戦ってばかりいたわけじゃないんです。
ときには皇女を嫁がせたり、捕虜を交換したりして、一時的な和平を築くこともありました。
外交文書や通商協定も結ばれていたんですよ。
この2国、ただの領土争いだけじゃなく、宗教の立場の違いも重要な要素でした。
ビザンツはキリスト教国家、ササン朝はゾロアスター教国家。
宗教の違いは正当性の根拠にもなっていて、「こっちこそが神に選ばれた帝国だ!」とお互い主張していました。
とりわけアルメニアは、東西両帝国の間に挟まれたキリスト教国だったため、双方が強く干渉しました。
ササン朝はアルメニアのキリスト教化に神経をとがらせ、しばしば干渉・弾圧を行ったんです。
ビザンツとササン朝の関係は、7世紀に“最後のクライマックス”を迎えます。
ビザンツ皇帝ヘラクレイオス1世と、ササン朝のホスロー2世との間で起きた最終戦争(602〜628年)は、両国とも国家存亡レベルの大戦争でした。
ササン朝はエルサレムを占領し、聖墳墓教会を焼き、「真の十字架」も奪うという衝撃の行動を取ります。
これに怒ったヘラクレイオスが反撃に転じ、最終的にササン朝を撃退して「真の十字架」を奪還することに成功しました。
ところがこの戦争、どっちも国力を使い果たすという悲劇的な結末に。
まもなくイスラーム勢力(正統カリフ時代)が登場し、ササン朝はまさかの急速崩壊。
一方ビザンツも、シリア・パレスチナ・エジプトをイスラームに奪われ、回復不能なダメージを負いました。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とササン朝ペルシアの関係は、まさに「帝国同士の最終決戦」だったんですね。
このように、2つの大国が長年にわたり激しく火花を散らし、やがて共に新しい時代の波に飲み込まれていったのです。