
ローマ帝国が東西に分かれてから、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は約1000年という気が遠くなるような長い歴史を刻みました。その間には、栄光と危機、再生と滅亡が繰り返されていきます。
そして、東ローマ帝国の歴史は、「建国期」「最盛期」「危機と再建期」「終焉期」の4つの時期に分けて理解すると、全体像がぐっとつかみやすくなります。それぞれの時代に何が起きたのか、重要な出来事を見ていきましょう。
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まずは「東ローマ帝国」という存在が形を取り始めた時代です。
テオドシウス1世の死後、ローマ帝国は東西に分割され、東側が独自の道を歩み始めます。
この年が、東ローマ帝国の本格的な始まりとされています。
少しさかのぼりますが、コンスタンティヌス1世が首都をコンスタンティノープルに遷都したことは大きな転換点。
この都市が帝国の心臓部となり、ビザンツの名を世界に知らしめる拠点となりました。
この時期は、軍事・文化・法制度すべてが輝いた黄金時代です。
帝国史上最も有名な皇帝ユスティニアヌス1世の時代。ローマ法大全の編纂、ハギア・ソフィア大聖堂の建設、西方領土の再征服と、歴史に残る功績がずらりと並びます。
この頃から、カトリックと正教会の関係がぎくしゃくし始めます。
神学論争や聖像崇拝の問題が表面化していくきっかけの時期でもありました。
外敵の侵入や内部の混乱にさらされながらも、帝国は何度も持ちこたえていきます。
アラブ・イスラーム勢力の台頭により、東ローマ帝国はたびたび領土を失います。
でもコンスタンティノープルは何度も包囲を耐え抜き、その粘り強さは世界を驚かせました。
キリスト教内部で聖像を巡る論争が激化。これは帝国内部の信仰や政治に大きな亀裂を生むことになります。
一時は衰退していたビザンツも、この時期にマケドニア朝のもとで復活。軍事・経済・文化が再び活気を取り戻します。
最後の200年間は、復活と衰退が入り交じる“終わりのカウントダウン”のような時代です。
西欧の十字軍がまさかのコンスタンティノープル占領。ビザンツ帝国はいったん滅亡し、代わりにラテン帝国が建てられました。
ミカエル8世パレオロゴスによって都は奪還され、ビザンツ帝国は復活。けれど、それは以前の力強さを取り戻すものではありませんでした。
メフメト2世率いるオスマン軍によって、ついにコンスタンティノープルが陥落。
ここに、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は完全な終焉を迎えます。
年 | 出来事 |
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330年 | コンスタンティノープル(旧ビュザンティオン)をローマ帝国の新首都に定める |
395年 | ローマ帝国の東西分裂、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)として独立的に存在 |
527年~565年 | ユスティニアヌス1世の治世、ローマ法大全の編纂、ハギア・ソフィア聖堂の建立 |
626年 | アヴァール人・スラヴ人・サーサーン朝の連合軍によるコンスタンティノープル包囲戦(撃退) |
717年~718年 | ウマイヤ朝によるコンスタンティノープル第二次包囲(敗退) |
843年 | 聖像破壊運動(イコノクラスム)終結、「正教会の勝利」として祝われる |
1054年 | 東西教会分裂(グレート・スキスマ)、ローマ・カトリックとギリシア正教の分離 |
1071年 | マンジケルトの戦いでセルジューク朝に敗北、アナトリアの支配権を失う |
1204年 | 第4回十字軍によりコンスタンティノープルが陥落、「ラテン帝国」成立 |
1261年 | ニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪還、ビザンツ帝国復活 |
1453年 | オスマン帝国のメフメト2世によりコンスタンティノープルが陥落、ビザンツ帝国滅亡 |
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の歴史は、盛衰の波がはっきりと見える壮大なドラマだったんですね。
このように、時期ごとに整理して見ることで、千年帝国の物語がぐっとリアルに感じられるようになります。