
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とフランク王国――この2つの関係って、遠く離れていそうで実はめちゃくちゃ深くて、“微妙”なんです。
同じキリスト教圏なのに、互いに正統性を主張しあったり、協力しそうでぎくしゃくしたり…。
そして簡単にいえば、東ローマ帝国とフランク王国の関係は、「ローマの正統性をめぐる対立」「外交と婚姻を通じた駆け引き」「教会との関係が絡む複雑な綱引き」でした。では、両者がどう関わり、どうすれ違っていったのかを、じっくり見ていきましょう。
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もともとフランク人は、ローマ帝国の滅亡後に登場したゲルマン民族の一部族でした。
8世紀、イスラム勢力(ウマイヤ朝)がイベリア半島からフランスに進出してくると、
フランクの英雄カール・マルテルがトゥール・ポワティエの戦い(732年)で撃退。
ビザンツとしては、“遠くの西の守り神”って感じだったんですね。
このころからローマ教皇が、ビザンツ皇帝ではなくフランク王家(ピピンやカール)に接近しはじめます。
これが後に、東西の断絶を生む最初のステップだったとも言えるわけです。
ビザンツとフランクの関係が決定的にぎくしゃくするのが、この大事件です。
ローマ教皇レオ3世が、フランク王カール大帝に「ローマ皇帝」の冠を授けます。
ところが、その時点でローマ皇帝はもう東ローマに存在していたんですよね。
つまり、「ローマ皇帝がふたりいる」状態に…。
当然ビザンツは、「皇帝は我々だ!」と大反発。
正教世界では「自分たちこそ正統なローマの継承者」という意識が強く、フランクの皇帝なんて“偽ローマ”に見えたんです。
とはいえ、敵対ばかりじゃ前に進まない。そこで、お互いに“落としどころ”を探る動きも出てきます。
ビザンツの皇女とカール大帝の息子との政略結婚を模索したり、一時的にフランク皇帝の称号を承認したり。
9世紀前半には、両者の間で一定の“緊張緩和”が実現するんです。
ビザンツ側は自分たちの皇帝をバシレウス(ギリシア語で皇帝)、フランク皇帝はインペラトル(ラテン語)と呼び分けることで、
「お互い皇帝ってことでいいけど、ウチの方が本家だよ?」というメッセージを込めていました。
この時代から、ビザンツ(東方正教)とフランク王国の支える西方カトリックには、少しずつ宗教的な溝も広がっていきます。
三位一体の「聖霊は父から、そして子から発出する」というフィリオクエ句の挿入問題が発火点に。
ビザンツ教会はこれに強く反発し、神学的な溝が深まっていきました。
この神学のズレ、皇帝のダブル問題、教会のリーダーシップ争い…
すべてが積もり積もって、やがて1054年の「大シスマ(東西教会分裂)」につながっていくのです。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とフランク王国の関係は、「ローマの後継者はどっち?」という意地の張り合いでもありました。
このように、協力と対立を繰り返す中で、キリスト教世界はやがて“二つのローマ”に割れていくことになるのです。