
「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」って、いかにも昔からあった呼び名っぽいけど――じつは当時の人たちは一度もそう呼んでいませんでした。
結論からいえば、「ビザンツ帝国」という呼称が使われるようになったのは、15〜16世紀以降の近代ヨーロッパで、主に西欧の歴史学者が後付けで使い始めた用語なんです。
では、いつ、誰が、なぜその名前を使い出したのか? 時代ごとの流れを整理してみましょう!
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まず大前提として、ビザンツ人自身は「ビザンツ人」なんて名乗っていなかったんです。
ギリシャ語での正式名称は「バシレイア・トーン・ローマイオーン(Ῥωμαίωνの帝国)」。つまりズバリ「ローマ帝国」。
住民はῬωμαῖοι(ローマイオイ)=ローマ人を自称していました。
西ヨーロッパ側では、ビザンツのことをしばしば「ギリシャ人の帝国」などと呼んでいましたが、これは「あいつらローマ人自称してるけどギリシャ人じゃねーか!」っていう軽蔑的・対抗的な意味合いが強かったんです。
帝国滅亡後、「ビザンツ帝国」という言葉が誕生する舞台は、ルネサンス期の西ヨーロッパです。
1453年にコンスタンティノープルが陥落して帝国が消滅したあと、西欧の歴史家たちは、
「このギリシャ語圏の国家はローマ帝国とは別物だったのでは?」
と考え始めます。
そこで、分裂後の“ローマ的だけど違う帝国”を区別するための新しい呼び名が求められたんです。
ドイツの歴史家ヒエロニムス・ヴォルフが1557年に出版した『ビザンティウム史集成(Corpus Historiae Byzantinae)』で、 「ビザンツ帝国(Imperium Byzantinum)」という表現が登場。これが歴史学上の最初の使用例とされています。
別に「ギリシャ帝国」とかでもよかったのに、なんで“ビザンツ”という名前にしたのか?
この名前は、後の首都コンスタンティノープルの古名ビュザンティオン(ラテン語:ビザンティウム)に由来。
コンスタンティヌス1世が330年に「第二のローマ」として再建する前の都市名だったんですね。
「ローマ」と呼ぶと西欧(カトリック)と東欧(正教)で正統性争いがややこしくなる。 一方で「ギリシャ帝国」だと民族的なイメージが強すぎる。
だからこそ、「昔の都市名をとった“ビザンツ帝国”」という表現がちょうどいい“妥協案”として定着したんです。
呼び方が定着するまでには、さらに時間がかかりました。
ビザンツ史が独立した研究分野として確立されてくるのは、啓蒙期以降。
この時代に、ヨーロッパの大学で「ビザンツ帝国史」という枠組みが広まり、今の呼び方が世界標準になっていったんですね。
一部の学者やギリシャ正教文化圏では、「やっぱり“ローマ帝国”って呼ぶべきじゃない?」という声もあり、 この“呼称問題”は今でもアイデンティティと歴史認識をめぐる興味深い論点なんです。
「ビザンツ帝国」という言葉は、実は帝国滅亡から100年以上も後に生まれた“学術上の呼び名”だったんですね。
このように、歴史のなかで呼び方そのものが作られ、私たちの“帝国像”もまた変わってきたのです。