
「ビザンツ帝国の初代皇帝って誰?」という疑問、けっこう迷うところなんですよね。 なぜなら、“いつからがビザンツ帝国?”という境界がはっきりしていないからなんです。
でも歴史的な通説に従えば、ビザンツ帝国の初代皇帝は「コンスタンティヌス1世(在位306〜337年)」とされるのが一般的。
なぜなら、コンスタンティヌス1世はローマ帝国の分裂と内乱を勝ち抜いたのち、キリスト教を公認し、新たな首都コンスタンティノープルを建設して「東のローマ」を実質的にスタートさせた皇帝だからです。
以下で詳しくみていきましょう!
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そもそも、なぜこの人が「ビザンツのはじまり」とされるのでしょうか?
285年、ディオクレティアヌス帝がテトラルキア(四分統治)を始めてから、ローマ帝国は実質的に“分裂状態”に。
その後、内乱が続き、やがてコンスタンティヌス1世がこれを再統一する形で勝ち抜きます。
最大の転機はここ。コンスタンティヌス1世がビザンティオンという古い都市を大改造し、「コンスタンティノープル」として帝国の新しい首都にしたのです。
これによって、政治・経済・軍事の中心が西から東へと大きくシフト。 この都市がその後1000年以上、ビザンツ帝国の心臓部になるわけです。
キリスト教を認め、後にはニカイア公会議(325年)を主催。
「キリスト教皇帝」という新しいタイプの皇帝像を定着させたのも彼の功績です。
この宗教的転換が、ビザンツの特徴となる“政教一致”の土台を築いたんですね。
コンスタンティヌス1世の即位は、実はかなりドラマチックな流れがあったんです。
彼の父はテトラルキア体制下の副皇帝で、息子のコンスタンティヌスも軍人として頭角を現していました。
西暦306年、父が亡くなると、軍がコンスタンティヌスを「正当な後継者」として推挙。
当時の制度では正式な即位とは認められていなかったのですが、彼は実力で帝位をつかみ取っていきます。
その後、マクセンティウスやリキニウスなど複数の皇帝候補と熾烈な内戦を展開。
312年のミルウィウス橋の戦いでは「キリストの印の下に勝て」という幻視を受けて勝利した、という有名な逸話も残っています。
なお、狭義ではビザンツ帝国を「西ローマ帝国の滅亡(476年)以降の東側国家」とみなす考え方もあります。
この場合、東西ローマ帝国の完全分裂後に東側で即位したゼノン(在位474–491)や、 その後を継いだアナスタシウス1世(在位491–518)を初代とする説もあります。
ですが、歴史的にはやはり「コンスタンティヌス1世」が最もふさわしい初代皇帝とされるのが主流なんですね。
このように、ビザンツ帝国の“初代皇帝”として名を残すコンスタンティヌス1世は、ただの政治家ではなく、 帝国の方向性――首都の場所、宗教、行政のスタイル――を大きく決めた“設計者”のような存在だったんです。
まさに、彼がいなければビザンツは始まらなかった…というわけなんですね。