
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)って、かつては地中海世界の経済の心臓部ともいえる存在でした。
でも時代が下るにつれて、じわじわと経済的な存在感が後退していくんです。
結論からいえば、東ローマ帝国の経済的地位が低下した理由は、「交易ルートの変化」「軍事費の肥大化」「外国商人への依存」「農村経済の疲弊」といった複数の要因が絡み合っていたからなんですね。ひとつずつ見ていきましょう。
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帝国にとって最大の強みだった国際貿易――これがある時期から崩れていくんです。
7世紀以降、イスラーム帝国(ウマイヤ朝・アッバース朝)が地中海東部を次々制圧。
これによって、東方貿易の通路が次第に奪われ、帝国の“中継地”としての役割が薄れていきました。
中央アジア〜イランを通る陸路の安全が揺らぎ、ビザンツが担っていた東西交易の最後のリレー役から外されてしまうことに。
その後、インド洋交易が活発化するにつれて、帝国は徐々に“海の端っこ”扱いになっていきます。
帝国の経済に重くのしかかってきたのが、果てしない軍事支出でした。
イスラーム勢力との国境防衛、スラヴ人・ノルマン人・トルコ人の侵入…。
ビザンツは常に複数の敵に囲まれていて、防衛線の維持に莫大な軍資金が必要だったんです。
特に後期になると、自前の軍団が減り、ラテン人やヴァリャーグなどの傭兵に依存するように。
ところがこの傭兵たち、報酬が高い・忠誠心が低い・裏切ることもあるという、コスパ最悪の存在でした。
国際貿易を復活させようとした結果、かえって首を絞めてしまったという逆効果も。
11世紀以降、帝国はヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサといったイタリア商人に治外法権・免税特権を与えました。
その結果、彼らだけが儲かる構図ができてしまい、帝国の関税収入は減少。
港や市場の流通がイタリア商人に握られ、ビザンツ商人の地位が急落。
国の経済を動かす力が、だんだんと「外の商人の手」に渡っていったんです。
都市だけじゃなく、農村もじわじわとダメージを受けていきます。
戦費の増加にともない、農民への課税が過酷に。逃亡・小作化が進み、自営農民=軍の兵員&納税者というモデルが崩壊してしまいます。
特権階級(ダイモネス)が広大な土地を掌握し、小作人に耕させるようになり、土地の富が一部に集中。
結果、地方経済の活力が薄れ、国家全体の税収も落ちていったのです。
通貨帝国だったビザンツにとって、これは致命的でした。
11世紀末〜12世紀にかけて、インフレや通貨改悪が続き、金貨の純度低下や信用喪失が進行。
やがて、ヴェネツィアのドゥカート金貨など、外国貨幣のほうが信用されるようになります。
貨幣の価値が安定しなくなると、市場の活動も鈍化。都市の商業活動が低調になると、税収も減る…という経済の悪循環が始まってしまったんですね。こうして、東ローマ帝国は「通貨を軸とした経済モデル」の土台を徐々に失っていきました。
かつては東西の交易を支えた金貨ノミスマが信頼を失う中で、帝国内の流通経済は縮小し、代わって外国商人(特にイタリア都市国家)に経済の主導権を握られていきます。国家としての経済的独立性も揺らぎ、後の衰退に直結することとなったのです。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の経済力が落ちていったのは、外的な圧力と内的な崩れが重なった結果だったんですね。
このように、貿易・軍事・農村・通貨のすべてがバランスを崩し始めたとき、帝国の“経済の心臓”も静かに弱っていったのです。