
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とアルメニアの関係は、ただのお隣さんではありませんでした。宗教、政治、軍事、そして血縁に至るまで――とにかく深くて複雑!
結論からいえば、東ローマ帝国とアルメニアは、互いに影響を与え合う「緊張と協力の関係」にあり、特に軍事・宗教・王族のつながりを通じて、長期にわたって密接に結びついていたのです。では、時代ごとにその関係がどう変化し、どんなポイントで結びついていたのかを見ていきましょう。
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まずは、両者の関係を考えるうえで欠かせないキリスト教という共通点から。
アルメニアはなんと世界で最初のキリスト教国家(301年)!
ビザンツもコンスタンティヌス1世の時代からキリスト教化が進んでいたため、共通の信仰が2国を近づける大きな要素になっていたんですね。
ただし、アルメニアは単性論(ミアフィシス)を採用したのに対し、ビザンツはカルケドン公会議の定式=両性論を支持。
この宗教的立場の違いが、後の政治的対立の火種になっていくんです。
「仲良くケンカしながらも一緒に戦う」――そんな微妙な軍事関係も、両者の特徴でした。
ビザンツ帝国は、歴代で多くのアルメニア系将軍・兵士を登用してきました。
彼らはとくに国境地帯で活躍し、防衛戦や遠征軍の中核を担っていたんです。
有名な皇帝バシレイオス1世(在位:867–886年)もアルメニア系の出自とされています。
アルメニアの地理的ポジションは、ペルシアやイスラーム勢力との境界。
だからこそ、ビザンツにとってアルメニアは防壁であり、通路でもあり、ときに争奪戦の舞台になったんですね。
仲がいいだけじゃないのが、ビザンツとアルメニアの難しさです。
ビザンツは、アルメニアの王位継承問題や宗教政策にしばしば政治的介入を行い、自国寄りの人物を擁立しようとしました。
これに対して、アルメニア側は自立を保とうとし、反発する場面も少なくありません。
11世紀、ビザンツ帝国はついにアルメニアのバグラティド王国を併合(1045年)します。
ところがこれが裏目に出て、地元貴族の反感やイスラーム勢力の侵攻を招き、アルメニア地域の安定が崩れてしまいました。
でもね、対立ばかりじゃありません。長年の交流の中で、文化的な融合もたっぷりあったんです。
アルメニア正教会の建築様式や典礼の一部には、ビザンツの影響がしっかり見られます。
また、ギリシア語の聖典や文献がアルメニア語に翻訳されるなど、知的交流も盛んでした。
アルメニア系の人々は、軍人だけでなく宮廷官僚や聖職者としても出世しており、ビザンツ帝国の統治に深く関与していたんです。
つまり「外国人扱い」じゃなく、「一部の構成員」として受け入れられていたということですね。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とアルメニアの関係は、まさに「切っても切れないご近所付き合い」だったんですね。
このように、対立と協調をくり返しながらも、両者は文化・軍事・宗教の面で強く結びついていたのです。