ビザンツ帝国で「傭兵」が果たした役割とその歴史

ビザンツ帝国で「傭兵」が果たした役割は、外敵に囲まれた多民族帝国の中で“足りない戦力を埋める補強パーツ”として、そして時には“裏切りと忠誠のはざまで揺れる存在”として、軍事の現場を支え続けたことにあります。
この記事では、ビザンツに雇われた傭兵たちがどこから来て、どんなふうに戦い、どんな歴史を刻んだのかを見ていきますね!

 

 

なぜビザンツは傭兵を使ったの?

まずは、そもそもビザンツ帝国がどうして“自前の軍隊”だけでは済まなかったのか、そこを見ていきましょう。

 

広すぎる領土と足りない兵力

ビザンツ帝国の領土は広大で、時代によってはバルカン半島から小アジア、シリア、エジプトにまで及びました。
そのぶん戦う場所が多すぎて、常備軍だけじゃまかないきれなかったんですね。
とくに国境地帯の戦線を維持するために、外部の戦士=傭兵が重要になっていきました。

 

自国兵より“頼れる”ことも

ビザンツでは内政と宗教儀礼が重要視され、必ずしも兵士が“武闘派”とは限りませんでした。
その点、傭兵たちは戦いのプロ。ときには自国軍より士気が高かったり、戦闘技術が優れていたりすることもあったんです。

 

どんな傭兵たちがいたの?

ビザンツに雇われた傭兵って、実はめちゃくちゃバラエティ豊かでした。いくつか代表例を紹介します。

 

ヴァリャーグ親衛隊

とくに有名なのがヴァリャーグ親衛隊。これは主に北欧やルーシ(現ウクライナやロシア)出身の戦士たちで、斧を振るって戦うことで知られていました。
彼らは皇帝の親衛隊として仕え、皇宮の警備から戦場の突撃まで幅広く活躍。忠誠心の高さでも評価されていたんですよ。

 

ノルマン、トルコ、アラブ系も

西欧からはノルマン人傭兵も多数参加していて、とくにイタリア方面の戦線で用いられました。
また、バルカンや中東出身のトルコ系、アラブ系の戦士も雇われ、ときには“敵だった民族”を味方につけて戦うこともあったんです。

 

カタパノと戦術傭兵

ビザンツは兵種の使い分けにも長けていて、軽騎兵・弓兵・槍兵などを各地から雇って“ミックス戦術”を編成。
「この地域のこのタイプの敵には、この民族の傭兵が強い」みたいな使い分けをしてたのが興味深いところです。

 

傭兵の功罪とビザンツの変化

頼れる存在だった一方で、傭兵にはリスクもありました。そのあたりが歴史を通じて問題になっていきます。

 

忠誠心の弱さと反乱

当然ですが、傭兵は報酬があってこそ動く存在。給料の遅配や不満があると、反乱を起こしたり、敵に寝返ったりすることも珍しくなかったんです。
一部では、傭兵部隊が現地で略奪を行うこともあり、皇帝の頭を悩ませる存在でもありました。

 

14世紀以降の依存度上昇

帝国末期、特に軍事力が弱体化してくると、傭兵に頼りすぎる傾向が強くなっていきます。
中でもカタルーニャ傭兵団のように、一時は帝国の内部で暴走状態に陥る事例も出てくるんですね。
もはや“助っ人”ではなく“危険な同居人”になりつつあったわけです。

 

ビザンツ帝国にとって傭兵たちは、国境を守る剣であり、時に裏切りの火種でもありました。
でも、彼らなしでは帝国の軍事力は保てなかったし、多民族国家としての“柔軟性”も傭兵文化が支えていたとも言えます。
このように、傭兵の歴史をたどると、ビザンツ帝国のしたたかさと限界が、じわじわと見えてくるんですね。