
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、かつて古代ローマの正統な後継者として地中海世界の一角を支配していました。けれど、千年続いたその帝国にもついに終わりの時が訪れます。
結論からいえば、東ローマ帝国の滅亡は「軍事力の限界」「経済的疲弊」「外部勢力の拡大」によって引き起こされ、その後の東欧世界には宗教的・政治的な大きな変化がもたらされました。では、どのようにして帝国は崩壊し、東欧の地図が塗り替えられていったのかを追っていきましょう。
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ビザンツ帝国は突然倒れたのではなく、長い時間をかけて徐々に力を失っていったんです。
かつて東方の守護者だった帝国も、14世紀以降は傭兵頼りの軍制に依存し、自前の軍事力は著しく低下していました。
オスマン帝国の近代化された軍隊—とくに火砲を用いた攻城戦術には太刀打ちできず、防衛はもはや限界だったのです。
首都コンスタンティノープルこそ栄えてはいたものの、農村は荒廃し、商業の主導権もイタリア商人たちに奪われていました。
財政は逼迫し、兵士に給料を払うのも困難なほど。こうした経済の衰退が、国力全体を削いでいきました。
ビザンツ帝国が弱っている間に、オスマン帝国が急成長。アナトリアからバルカンへと勢力を広げ、包囲網を形成していきました。
西ヨーロッパからの援軍は少なく、宗教の違いもあって東西の連携は取れませんでした。
ビザンツの消滅は、東欧世界にとって巨大な転換点になりました。
1453年、コンスタンティノープルが陥落すると、オスマン帝国は「ローマ帝国の後継者」を名乗り、イスタンブールを新たな首都とします。
バルカン半島の多くはイスラームの支配下に入り、キリスト教勢力は後退していきました。
コンスタンティノープル総主教庁の権威は揺らぎ、ロシア正教会が「正教の中心」を自認するようになります。
モスクワは自らを「第三のローマ」と呼び、宗教的な正統性を引き継いでいったのです。
ビザンツ滅亡後、東西キリスト教世界の分断は決定的なものになります。
ラテン世界(カトリック)とギリシア正教世界(オーソドックス)は、それぞれ別の文化圏・政治圏として発展していきました。
滅亡後、多くのビザンツ知識人が西ヨーロッパへと亡命し、ルネサンスの知的基盤に大きな影響を与えました。
ギリシア語文献の紹介や哲学思想の復興は、この動きと深く関係しています。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の滅亡は、単なる国の終わりではなく、東欧と西欧の境界線を大きく塗り替える出来事だったんですね。
このように、帝国の崩壊は新たな秩序の始まりでもあったのです。