
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)って、名前に「ローマ」がついてるのに、時代が進むにつれてどんどんギリシャっぽくなっていったんです。
じゃあ、なんでそんな「ローマ帝国」がギリシャ化していったのか?
結論からいえば、東ローマ帝国がギリシャ化したのは、「地理的・文化的な基盤がギリシャ語圏だったこと」「行政と言語の実用的な変化」「宗教と教育のギリシャ哲学への依存」などが重なって、ローマ的伝統よりも東方的な色合いが強まっていったからなんですね。
それでは、順を追ってその理由を見ていきましょう。
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そもそも「ギリシャ化」は、始まりからすでに始まってたとも言えるんです。
東ローマ帝国が引き継いだ領土の大半は、古代ギリシャ世界にあたる地域――たとえばアナトリア半島(小アジア)、バルカン半島、東エーゲ海沿岸など。
そこに住んでた人たちの日常語はギリシャ語でしたし、都市文化や教育のベースもギリシャ的だったんですね。
アテネ、エフェソス、ニカイア、テッサロニキなどの古代ギリシャ都市がそのままビザンツの中心地になったことで、ギリシャ文化が当たり前のように継承されていきました。
国家運営そのものが、だんだんとギリシャ語ベースにシフトしていきます。
最初はラテン語が行政言語でしたが、7世紀のヘラクレイオス帝(在位:610–641年)の時代に正式にギリシャ語が公用語化されます。
それ以降、法律、命令文、行政文書はすべてギリシャ語で書かれるように。
やがてラテン語は教養としてしか使われなくなり、西ローマとの文化的断絶も加速。
ギリシャ語が「ローマ人としての共通言語」として定着していきました。
ビザンツ正教(東方正教)そのものも、深いところでギリシャ哲学の影響を受けていました。
初期のキリスト教思想を形作ったカッパドキアの教父(バシレイオス、グレゴリオス兄弟など)やアレクサンドリア学派の神学者たちは、
みんなギリシャ語を使ってギリシャ的ロジックで信仰を語っていたんです。
ビザンツの教育では、プラトンやアリストテレスといった古代ギリシャ哲学が基礎科目。
その上で神学や聖書解釈が学ばれていたので、知識人=ギリシャ語知識人という構図が自然と生まれていたんですね。
「西のラテン」と「東のギリシャ」の分断が進む中で、東ローマはギリシャ世界としての独自性を強めていきます。
476年に西ローマ帝国が崩壊すると、ビザンツは唯一のローマ皇帝国家として残ります。
でも、ローマ的な文化が残る西とは言語も宗教も制度も違いすぎるようになり、ビザンツは“ギリシャ的ローマ帝国”として生きていくことに。
カトリック(ラテン語)と正教会(ギリシャ語)の分裂は、言語文化の断絶を決定的にします。
こうしてビザンツは、完全にギリシャ正教文化圏としてのアイデンティティを確立していくわけです。
東ローマ帝国がギリシャ化していったのは、最初からギリシャ語圏に根ざしていて、時代とともに行政・宗教・教育のすべてが“ギリシャ的”に染まっていったからなんですね。
このように、ローマの名を残しつつも、ビザンツは独自の東方ギリシャ文明として育っていったのです。