ビザンツ帝国とロシアの関係

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とロシア――この2つの関係は、地理的にはちょっと離れてるように見えますが、実は宗教・文化・政治の基盤にまで深くかかわる重要な関係なんです。
結論からいえば、東ローマ帝国とロシア(キエフ・ルーシ)との関係は、「キリスト教の伝播」「文化・制度の受容」「軍事・通商による接触」などを通じて、ビザンツが“精神的な親”としてロシア世界に影響を与えた関係でした。では、その背景を順を追って見てみましょう。

 

 

接触の始まりと通商ルート

まずは、両者がどこでどうつながったのか――それは通商と外交からでした。

 

ヴァリャーグと地中海ルート

9〜10世紀、北方から南下してきたヴァリャーグ(ノルマン系)の商人・戦士たちが、ドニエプル川を下ってコンスタンティノープルに到達。
ここでビザンツと交易・傭兵・外交の関係が生まれました。

 

キエフ・ルーシとの貿易協定

ビザンツとキエフ公国は何度も条約を結び、毛皮・蜂蜜・奴隷などを交換。
この関係が文化的な影響の“窓口”となっていったんですね。

 

キリスト教の受容と正教世界の形成

ここが最大のポイント。ビザンツとロシア世界を結びつけた決定的な要素は、やっぱり宗教でした。

 

ウラジーミル1世の改宗(988年)

キエフ公ウラジーミル1世は、複数の宗教からどれを取り入れるか検討した末、ビザンツ正教を選びます。
このとき彼はビザンツ皇帝の妹アンナと結婚し、国際結婚+宗教改宗という一大イベントが成立!

 

「第2のコンスタンティノープル」を目指して

これを機に、ルーシの宮廷ではビザンツ式の建築・儀礼・法律が一気に取り入れられ、
正教会が政治と文化の軸になる社会が始まります。
いわばロシア世界にとって、ビザンツは“文明の先生”だったんですね。

 

軍事・外交のつながり

文化だけじゃなく、軍事や政治の面でも実はけっこう関わってました。

 

ヴァリャーグ衛兵隊

ビザンツ皇帝の親衛隊には、北方から来たヴァリャーグ兵が採用されており、 彼らの中にはルーシ出身者もたくさんいました。コンスタンティノープルの防衛を担う、いわば“北方の精鋭”だったんです。

 

ビザンツとの同盟と衝突

10世紀にはキエフ・ルーシとビザンツが戦争と和解を繰り返す時期もありました。
とくにオレグやイーゴリといった公たちは、商権や交易ルートをめぐって遠征をしかけることも。
でも長い目で見ると、戦よりも宗教と文化の橋渡しの方が圧倒的に大きかったですね。

 

ビザンツ崩壊と“ロシア正教世界”の成立

1453年、ビザンツがオスマン帝国に滅ぼされると、この関係は思わぬ方向に進んでいきます。

 

「第3のローマ」という思想

ビザンツが滅亡したあと、モスクワ公国では「第3のローマ」という思想が登場します。
「ローマ→コンスタンティノープル→モスクワ」へと、正教の継承者はロシアだという考え方です。

 

ロシア皇帝=ツァーリの登場

ビザンツ皇帝の称号「カイサル(皇帝)」に由来するツァーリという呼称がロシアで使われ始め、 ロシアは自らを正教世界の守護者として位置づけていくのです。

 

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とロシア世界の関係は、通商と外交から始まり、最終的には宗教と文化を通じて“文明の継承”へと進化していったんですね。
このように、ビザンツが滅んだあとも、その精神はロシアという新たな舞台に引き継がれていったのです。