ビザンツ帝国にもフォルムみたいな公共広場はあったの?

あのローマ帝国名物の「フォルム(公共広場)」――東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にも、果たして残っていたのでしょうか?

 

結論からいえば、東ローマ帝国にもローマ帝国由来の「フォルム」的な公共広場は存在していて、特にコンスタンティノープルには“皇帝の威光”と“市民の生活”が交わる重要な都市空間がいくつもあったんです!ただし、形も意味も少しずつ“ビザンツ風”に進化していきました。

 

 

コンスタンティノープルの主な広場群

帝都にはフォルムにあたる都市空間=メソン(μέσον)またはフォルモス(φόρμος)がいくつも存在しました。

 

コンスタンティヌスのフォルム

コンスタンティヌスのフォルム(Forum of Constantine)はまさに古代ローマの伝統を引き継いだ“円形広場”で、コンスタンティノープル建設当初(4世紀)から存在。
中央には皇帝コンスタンティヌス1世の巨大な柱像が建ち、儀式や行列がここを通っていました。
周囲には列柱廊や公文書館、市場もあり、典型的な“フォルム型広場”だったと言えます。

 

テオドシウスのフォルム

テオドシウスのフォルム(Forum of Theodosius)は、もうひとつの大広場で、ローマのトラヤヌス広場を模した複数の記念碑と図書館、バシリカ(会堂)が並んでいました。
中央にはテオドシウス1世の記念柱(ローマ皇帝の威光を象徴する柱)が建っていたんですよ。

 

ヒッポドロームも“広場”だった?

はい、競馬場なのに、じつは都市の広場機能も担っていたんです。

 

ヒッポドローム=皇帝と市民の“顔合わせ”の場

ビザンツ帝国の政治・娯楽・宗教儀式が合体した特異な空間。ただの競技場じゃなくて、反乱(ニカの乱)も、凱旋パレードも、聖遺物の公開もここで行われました。
つまり“ただのレース場”じゃなく、皇帝と市民が出会う巨大な“政治広場”だったんです。

 

装飾された記念物

- エジプトのオベリスク
- 蛇の柱(デルポイから移送)
- ブロンズ製の四頭馬像(のちにヴェネツィアへ)

 

こうしたモニュメントの数々が、空間全体を象徴的な“語り場”にしていたわけです。

 

ローマ的“フォルム”との違いは?

もちろんそのまんま継承されたわけじゃなく、ビザンツ流にちょっとずつ変化してました。

 

宗教色の強まり

西ローマ時代のフォルムは神殿+元老院+市場という複合施設でしたが、ビザンツではこれが教会+儀式空間+皇帝記念碑という構成に変化。
つまり“フォルム”が神の秩序を表す舞台になっていったんですね。

 

市民参加の減少と儀式空間化

ローマではフォルムが民衆の討論や裁判の場にもなっていましたが、
ビザンツ時代は、次第に皇帝の行進・宗教祝祭に主役が移り、市民は観客的な立場に。
つまり広場は“見せる空間”になっていったわけです。

 

“広場文化”の名残は今もある?

実はコンスタンティノープルの通りや地名に、当時の“広場文化”の痕跡が見え隠れしています。

 

メセ通り(Mese)

「メセ=中央の道」は、皇帝の行列が通る儀式の大通りで、いくつもの広場(フォルム)を結んでいました。
今のイスタンブール旧市街の主要道路に、ほんのりその名残があります。

 

“フォルム”跡地に今もある通りや広場

  • コンスタンティヌスのフォルム → チェンベルリタシュ(焼けた柱)広場
  • ヒッポドローム → スルタンアフメト広場

 

これらの場所も、行ってみると、ちゃんと当時の柱やレリーフが残っていて、今も人々が集まる場になってるのが感慨深いですよ。

 

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にも、ちゃんと“フォルム的な公共広場”が存在していて、それは単なる市民の集いの場じゃなく、皇帝と神と都市をつなぐ神聖で政治的な空間だったんですね。
このように、古代ローマの都市文化は形を変えながらも、ビザンツの中心にしっかりと根付いていたのです。