
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にも、じつは「歴史を変えた伝染病」がありました。
それが6世紀に起こった大流行――いわゆる「ユスティニアヌスのペスト」です。聞き覚えがあるかもしれませんが、そう、あの「黒死病(ペスト)」と同じ細菌が原因と考えられています。
東ローマ帝国ではユスティニアヌスの時代にペストが大流行し、人口減少、経済混乱、軍事力の低下など多方面に深刻な影響を与えたのです。では、帝国を襲った未曾有の疫病がどのように発生し、何をもたらしたのか、わかりやすく解説していきますね。
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まずは、当時の東ローマ帝国にペストがどうやって入り込んできたのかを見てみましょう。
感染源は、現在のエチオピアやエジプトあたりから運ばれてきたとされています。
帝国はアジア・アフリカとつながる巨大な貿易網を持っていたので、病気も船やキャラバンに紛れてコンスタンティノープルまでたどり着いたんですね。
このときのペストは、主にネズミの体にいたノミが媒介していたと考えられています。
当時の都市では衛生状態も悪く、人口も密集していたため、爆発的に広がってしまったのです。
そしてただの流行り病で終わらなかったのが、このペストの恐ろしさなんです。ペストによって帝国は以下のような大きなダメージを受けました。
6世紀中ごろ、ペストは帝国中に広がり、特に首都コンスタンティノープルでは人口の3分の1〜半数が死亡したとも言われています。
街中には遺体があふれ、墓地も足りず、葬儀さえ間に合わない状況だったんです。
人口が激減すれば、農業や商業、税収にも大きな打撃が出ますよね。
とくに徴税や官僚制度は一時的にマヒし、帝国の統治機能そのものがぐらついたとも言われています。
兵士や労働者の数も大きく減り、ビザンツ帝国の軍事遠征や防衛能力もガタ落ちに。
このころ、ユスティニアヌス1世が夢見ていた“ローマ帝国の再統一”構想は、ここで大きく頓挫してしまうんですね。
ペストは一度きりじゃなく、何度も波のように襲ってきました。そしてそのたびに、帝国は体力を削られていったのです。
この6世紀の大流行を皮切りに、ペストは約200年にわたって周期的に再流行します。
復興しかけた都市がまた疲弊し、人々の不安と混乱が続くことになります。
疫病の恐怖は宗教的な熱狂を生み、神に祈る人々が急増。聖職者や修道士の影響力も強まっていきました。
一方で、「神の罰」として解釈されたことで、異端や“罪人”への非寛容さも強まったという面があります。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)におけるペストの流行は、ただの衛生の問題ではなく、国家全体の命運を左右する大事件だったんですね。
このように、たったひとつの病が、戦争以上に帝国を追い詰めることもある――そんな歴史の教訓がここにあるのです。