
ビザンツ帝国の女性で、歴史に最も名を残した人物といえば――皇后テオドラです。
彼女はユスティニアヌス1世の妻であり、ただの“皇后”ではなく、帝国の政治・宗教・社会改革に深く関わった実力派でした。
テオドラは低い身分から皇后に上り詰め、ユスティニアヌス1世と共にビザンツ帝国の黄金時代を築き上げ、特に女性の権利拡大と宗教政策で大きな功績を残したのです。
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まずは彼女の生い立ちと、どうやって皇后にまで登り詰めたのかを見ていきましょう。
テオドラ(500年頃–548年)は、父がコンスタンティノープルの競技場で働くクマ使い、母は踊り子というかなり低い出自でした。
若い頃は舞台女優として活動し、当時の風習では“芸人=娼婦扱い”されることもあったため、彼女の過去はしばしばスキャンダラスに語られます。
将軍ユスティニアヌスに見初められ、二人は深く愛し合うように。
身分の差ゆえに最初は反対も多かったのですが、特例で結婚が許され、ユスティニアヌスの即位とともに皇后となりました(527年)。
単なる装飾的な存在ではなかったテオドラ。むしろ、彼女がいなければ帝国は大変なことになっていたかもしれません。
532年、市民と貴族の不満が爆発して起きたニカの乱では、ユスティニアヌスが退位を検討してしまう場面も。
そのときテオドラが発したとされる言葉がこれ↓
「逃げるくらいなら、皇后として紫の衣の中で死ぬほうがましです。」
この一喝で皇帝の心が決まり、反乱を武力で鎮圧。帝国の崩壊を救ったとまで言われているんです。
テオドラは女性の権利拡大に熱心で、以下のような政策を進めました。
当時としては革命的な改革で、ビザンツ社会における女性の立場を大きく引き上げたと言えます。
当時、キリスト教内部では「イエスに神性と人性の二性があるか(カトリック派)」「神性のみか(モノフィサイト派)」という教義対立がありました。
ユスティニアヌスはカトリック寄りでしたが、テオドラはモノフィサイト派を擁護。
迫害を受ける宗教者たちを庇護し、帝国内の宗教分裂の緩和に一役買いました。
テオドラは皇后として20年以上にわたり、帝国の政務に深く関わりました。
548年、50歳前後で病死。彼女の死後、ユスティニアヌスは明らかに政治意欲を失ったとも言われています。
その存在がどれだけ大きかったかがうかがえますよね。
一部では出自や過去のスキャンダルを批判されることもありますが、それを超える影響力とリーダーシップを発揮したことは間違いありません。
東ローマ皇后の中でも、政治家・改革者・戦略家・保護者と、これほど多面的に評価されている人物はそうそういないのです。
このように、テオドラは単なる皇帝の妻ではなく、帝国のピンチを救い、女性の地位向上や宗教的寛容を実現した伝説級の皇后でした。
低い身分からのし上がった彼女の人生そのものが、ビザンツという複雑で柔軟な社会の可能性を象徴していたのかもしれませんね。