
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)って、「ローマ」の名を冠しているわりに、実際に使われていた言葉は“ラテン語”じゃなかったってご存じですか?
結論からいえば、東ローマ帝国の公用語は初期はラテン語、やがてギリシア語へと転換し、帝国独自の言語政策によって多言語的な社会が統治されていました。どうしてそんな変化が起きたのか、そしてビザンツがどんなふうに言語を扱っていたのかを詳しく見ていきましょう。
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まずは、帝国の中心で「公式に使われた言語」がどう変わっていったのかをおさらいしてみましょう。
395年に東西ローマ帝国が分裂したあとも、東ローマ帝国ではラテン語が法律や軍事の分野で公式に使われ続けていました。
これは「ローマ帝国の正統な後継者」であることをアピールする意味合いも強かったんですね。
でも実際のところ、帝国内で生活に使われていたのはギリシア語が中心。
そしてヘラクレイオス1世(在位:610–641年)の時代に、公文書や法令の言語もギリシア語へと公式に切り替えられました。
ここから、ビザンツ帝国は名実ともに「ギリシア語帝国」となっていくんです。
ビザンツは、ただ「公用語をギリシア語にした」だけじゃなく、多言語社会をどうコントロールするかにも力を入れていました。
帝国にはアルメニア人、スラヴ人、シリア人、コプト人など、多様な民族が暮らしていました。
彼らの言語は地方レベルでは宗教活動や日常生活に使うことが許されており、ビザンツはそれをすぐに強制的に“統一”することはしませんでした。
東方正教会の布教にあたっては、スラヴ系民族向けに教会スラヴ語という独自の教会用言語が開発され、帝国がこれを支援。
キュリロスとメトディオスという修道士が文字(グラゴル文字)まで作ったのは有名な話です。
このあたり、言語を「信仰の道具」として活用する姿勢がビザンツらしいところですね。
言葉は単なる道具じゃなく、帝国においては「誰がビザンツ人か」を形づくるカギでもありました。
公用語がギリシア語に切り替わったことで、哲学・神学・文学などの学問もギリシア語で発展。
ビザンツ人のアイデンティティも、「ローマ人」というより「ヘレネス(ギリシア人)」としての意識がだんだん強くなっていきました。
この言語の逆転現象が、のちの西欧諸国やローマ教皇庁との“すれ違い”を生んでいきます。
西から見ると「ギリシア語しゃべってるのにローマ名乗ってるって、変じゃない?」というわけです。
これがやがて、東西教会の分裂や「ローマ皇帝の正統性」をめぐる争いにもつながっていくのですね。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、言葉の使い方ひとつとっても、戦略的で奥が深いんですね。
このように、言語は単なる会話の手段じゃなくて、政治・宗教・アイデンティティをつなぐ帝国の“見えない柱”だったのです。