
ローマ帝国といえば、コロッセオやラテン語、カエサルの名で知られる“あの”ローマを思い浮かべるかもしれません。でも、ローマの歴史はそれだけじゃないんです。西のローマが滅びたあとも、東ではもうひとつの“ローマ”が形を変えながら続いていきました。
結論からいえば、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、「帝国分割による統治体制の変化」「東方の経済的安定」「新たな都コンスタンティノープルの建設」によって成立したのです。では、その誕生の過程をもう少し詳しく見ていきましょう。
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広大すぎるローマ帝国をどう管理するか—それが東西分裂の発端でした。
3世紀末、内乱と外敵の侵入で揺れていたローマ帝国を立て直そうとしたのがディオクレティアヌス帝。
彼は帝国を東西に分けてテトラルキア(四分統治)という新しい制度を導入しました。
これによって帝国は効率よく統治されるようになりますが、同時に東西の分化も進んでいきます。
一時は再統一されたローマ帝国も、395年のテオドシウス1世の死後、正式に2人の息子により東西に分割されます。
このときから、東ローマ帝国は一つの独立した政治単位として動き始めるわけです。
分割後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はなぜ残ったのか?それには理由があります。
東側にはエジプトの穀倉地帯や、東西交易の要衝であるアナトリアが含まれていました。
これにより、税収も安定し、西ローマよりもはるかに強固な経済基盤を持っていたのです。
東は西に比べて都市化が進んでおり、文化や学問の蓄積も豊かでした。
このおかげで、東ローマは強力な中央集権体制を築くことができたんですね。
そして決定的だったのが、ローマに代わる新しい“帝国の顔”の登場でした。
330年、コンスタンティヌス1世がギリシア都市ビザンティオンを拡張し、「コンスタンティノープル」として新首都に定めます。
この都市は東西の交易ルートを抑える好立地で、防衛にも優れ、やがてビザンツ帝国の象徴となっていきました。
コンスタンティヌス1世の時代にはキリスト教が公認され、帝国の中核に取り込まれます。
これは後の東方正教会の形成へとつながり、ビザンツ帝国の精神的支柱にもなっていきます。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、混乱のローマ世界の中から、戦略と地の利、そして宗教と政治の新しい結びつきによって生まれたんですね。
このように、“もうひとつのローマ”は偶然ではなく、必要に迫られて生まれた必然の国家だったのです。