
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、地中海貿易のイメージが強いけど、じつは紅海貿易にもガッツリ関わっていた時期があるんです。
結論からいえば、東ローマ帝国は主に6世紀前後、エジプトの拠点を通じて紅海貿易に参加し、インド洋世界との交易ルートを活用して香辛料・宝石・織物などの“東方の富”を輸入していたのです。
それでは、どうやってビザンツが紅海にアクセスしていたのか、何を求めていたのか、詳しく見てみましょう!
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コンスタンティノープルからインド洋まで、どう繋がってたのか気になりますよね?
6世紀初頭、ユスティニアヌス1世(在位:527–565年)の時代、東ローマはアフリカ東部のアクスム王国(現エチオピア周辺)と手を組みました。
アクスムは紅海西岸の重要な港をおさえていて、ビザンツの紅海ルート進出のカギだったんです。
ビザンツはローマ時代からのエジプトの支配者として、アレクサンドリアを拠点に紅海貿易の西の玄関口をキープしていました。
紅海沿岸の港町ベレニケ、ミオス・ホルモスなども、通商のための拠点として活用されていたんですよ。
では、ビザンツは紅海を通してどんなモノを手に入れてたのか?
胡椒、シナモン、カルダモンなどのインド産香辛料は、食用というより医療や宗教儀式用として重宝されていました。
とくに教会での薫香や油の調合に欠かせない品だったんですね。
南アラビア(現在のイエメンあたり)からは乳香(フランキンセンス)や没薬(ミルラ)といった神聖な香料が運ばれ、 これはキリスト教の典礼で大活躍。聖書にも出てくる超重要アイテムです。
ルビーやサファイアなどの宝石類、細かい手織りの綿織物・シルクも、ビザンツの上流社会の間で大人気でした。
これらは紅海〜アラビア海ルートを通じて、帝国に届けられていたんです。
地中海にも港はたくさんあるのに、なぜわざわざ紅海に手を出したのか?
ビザンツは長年ライバルだったササン朝ペルシアに、東方貿易の陸路を握られていました。
そこで、陸を避けて海を使うルート=紅海経由が重要になってきたんです。いわば戦略的な迂回ルートですね。
当時、南アラビアではユダヤ系のヒムヤル王国とアクスムが争っており、ビザンツはキリスト教徒であるアクスムを支援。
その見返りとして、紅海ルートの安定と優先利用が確保されたとも言われています。
紅海貿易、ずっと続いたのかというと――そうでもありません。
7世紀にイスラーム帝国(ウマイヤ朝)が急拡大し、エジプト・アラビア半島を支配すると、ビザンツは紅海へのアクセスをほぼ失います。
これにより、地中海の西半分やバルカン方面に重心を移さざるを得なくなるんですね。
以後、ビザンツは地中海貿易やバルカン半島との内陸交易に活路を見出していくことになりました。
紅海貿易は“一時的な黄金ルート”として、帝国の繁栄に大きく貢献したけれど、永続的ではなかったんです。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、紅海貿易を通じてインド洋世界とつながるルートを持っていたんですね。
このように、ササン朝との対立を避けながら、香料や宝石といった東方の富を手に入れるため、帝国は柔軟に貿易戦略を広げていたのです。