
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とオスマン帝国――これは「終わりゆく帝国」と「台頭する帝国」が交錯する、歴史的にもドラマチックな関係です。
結論からいえば、東ローマ帝国とオスマン帝国の関係は、当初の「緩やかな接触」から「軍事的包囲」へと移り変わり、最終的にビザンツの滅亡(1453年)によって決着する、時代交代を象徴する関係だったのです。では、その流れを時代順にひも解いてみましょう。
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オスマン帝国が登場したとき、ビザンツはすでに「かつての輝き」を失いつつある時代に入っていました。
1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領のあと、ビザンツはしばらく分裂状態に。
1261年に皇帝ミカエル8世パレオロゴスが帝都を奪回して再統一するものの、国力はすっかり落ちていました。
13世紀末、トルコ系遊牧民から生まれたオスマン朝がアナトリア西部に出現。
当初はビザンツの辺境領を襲う程度の存在でしたが、次第に本格的なライバルとして浮上していきます。
14世紀に入ると、ビザンツはオスマン帝国との距離を“対話”で保とうとする一方で、軍事的には完全に劣勢に立たされます。
オスマン帝国がヨーロッパ側(バルカン半島)に上陸した最初の拠点がガリポリでした。
これによって、ビザンツ帝国の「背中側」が脅かされることになったんですね。
14世紀後半には、ビザンツ皇帝がオスマン皇帝への貢納を行い、軍事的な援助まで受けるほどの関係に。
つまり、“表向きの独立”を保ちながら、実質的にはオスマンの従属国という屈辱的な状態になっていました。
そして、とうとうやってくる“その日”の話です。
1451年に即位したメフメト2世(後の「征服者」)は、コンスタンティノープルを落とすことを国家の目標に掲げました。
当時、帝都の守備兵はわずか数千人。対するオスマン軍は10万人超。火器や大砲を使って城壁を破る戦術も準備万端。
2か月近い包囲戦の末、1453年5月29日、ついにコンスタンティノープル陥落。
最後の皇帝コンスタンティノス11世は戦死し、1000年続いた東ローマ帝国はついに滅亡しました。
「終わり」は「始まり」でもありました。ビザンツの遺産は、オスマン帝国の中にさまざまな形で受け継がれていきます。
コンスタンティノープルはイスタンブルと名を変え、オスマン帝国の首都として再出発。
ビザンツ時代の教会はモスクに転用され、都市の機能はイスラムの大都市として再構築されました。
オスマン帝国は「東ローマの後継者」であることをアピールし、ときに“カエサル(カイサル)”=ローマ皇帝の称号さえ持ち出しました。
「イスラムのカリフ」と「ローマ皇帝」のハイブリッド国家――それがオスマン帝国だったとも言えるんですね。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とオスマン帝国の関係は、力の入れ替わりの象徴でもありました。
このように、ビザンツの終焉とともに、中世から近世へ、そしてキリスト教世界からイスラム世界へと、時代の重心が移っていったのです。