
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と神聖ローマ帝国――どちらも「ローマ帝国」を名乗るだけあって、そもそも仲良くなるのが難しいライバル関係でした。
結論からいえば、東ローマ帝国と神聖ローマ帝国の関係は、「ローマの後継者」をめぐる正統性争い、「皇帝の称号」をめぐる緊張、さらに宗教的な東西教会の対立という複数のレイヤーで複雑に絡み合った、名誉と信仰を賭けた綱引きの関係だったのです。
では、その歴史的な駆け引きの全貌を見ていきましょう。
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両者の関係はスタートの段階からピリついてました。
ローマ教皇レオ3世が、フランク王カール大帝に「ローマ皇帝」の冠を授けたことで、西ヨーロッパに“もう一人の皇帝”が誕生します。
でも、当時の本物のローマ皇帝(ビザンツ皇帝)はまだコンスタンティノープルにちゃんと存在していたわけで、これに東ローマ側は大反発。
ビザンツ側は「皇帝を名乗るなら、ウチが認めてからでしょ?」というスタンス。
つまり、「ローマ皇帝」を名乗る権利は、正統なローマ帝国=ビザンツだけにある、という自負があったんですね。
そんな中でも、実はお互いに少しずつ“歩み寄ろう”とした時期もあるんです。
数年後、ビザンツ側はしぶしぶカールを「バシレウス」(皇帝)としては承認。
ただし「ローマの皇帝(ローマイオン)」とは認めず、称号を限定的に認めた形になりました。
962年に神聖ローマ帝国が成立した後、皇帝オットー2世はビザンツの皇女テオファヌを后に迎えます。
これはビザンツにとっても「ある程度対等な相手」と認めた証でもあり、文化的交流も活性化した時期でした。
でも、やっぱり簡単には仲良くなれない…その原因のひとつが宗教の壁でした。
ビザンツ正教(東方正教)とローマ・カトリック教会の分裂、いわゆる東西教会の大分裂が決定的に。
これにより、「どっちの皇帝が正当か?」だけでなく、「どっちの教会が正しいか?」という宗教対立も加わることになります。
神聖ローマ皇帝が教皇とたびたび対立しつつも、キリスト教西方世界の守護者を自負する一方、
ビザンツ皇帝も「信仰の保護者」としてのカエサロパピズム的地位(皇帝=信仰の最高責任者)を主張していました。
まさに権威の二重構造ですね。
そして、ついに「同じキリスト教徒なのに敵」になる事件が起こります。
神聖ローマ帝国出身の十字軍騎士たちも参加した第4回十字軍が、
なんと聖地ではなくビザンツの首都コンスタンティノープルを襲撃。
そしてラテン帝国が設立され、ビザンツは50年以上首都を失うという歴史的屈辱を受けます。
この事件をきっかけに、ビザンツ側では神聖ローマ帝国も含めた“ラテン世界全体”への不信感が爆発。 「ラテン人=異教徒よりタチが悪い」という感覚すら広まるようになったんです。
その後、ビザンツ帝国と西欧世界の溝はますます深まっていきます。奪われたコンスタンティノープルは1261年、ニカイア帝国のミカエル8世パレオロゴスにより奇跡的に奪還されますが、帝国はかつての勢いを取り戻すことはできませんでした。
ビザンツ側にとって“裏切り者ラテン人”という記憶は消えず、正教とカトリックの分断も修復不能なものとなっていきました。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と神聖ローマ帝国の関係は、似ているからこそ仲良くなれなかった“ローマの双子の帝国”だったんですね。
このように、正統性・信仰・皇帝号をめぐる争いが長く続き、最終的には深い亀裂と決定的な断絶を生むことになったのです。