ビザンツ帝国の範囲・面積って全盛期どれくらいだったの?

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の全盛期ってどれくらい広かったの?って、気になりますよね。
あのちょっと地味なイメージとは裏腹に、実は「ローマ帝国の再興」とも言えるほどのとんでもない広さを誇っていた時期があったんです。
結論からいえば、ビザンツ帝国の最大領土は6世紀のユスティニアヌス1世の時代で、面積は約350万km²。地中海世界の東半分に加え、北アフリカ・イタリア・イベリア半島南部までも支配下に収めていたんですね。

 

 

最大版図の時代:ユスティニアヌス1世期(527–565年)

まず、「どのタイミングが最大だったのか?」というと、これはユスティニアヌス1世の時代一択です。

 

ローマ帝国再興の野望

ユスティニアヌス1世(482頃–565)は、「失われた西の領土を取り戻す!」という壮大な目標を掲げて、
北アフリカ・イタリア・イベリア半島南部などを次々と再征服していきました。

 

支配領域の範囲

このときの領域は、ざっくり以下の通りです。

 

  • バルカン半島全域(現在のギリシャ、アルバニア、ブルガリア、旧ユーゴ一帯)
  • 小アジア(トルコ全域)
  • シリア、パレスチナ、エジプトなど東地中海沿岸部
  • 北アフリカ(チュニジア、リビア、アルジェリア東部)
  • イタリア半島(ローマ含む)
  • イベリア半島南部(スペインの一部)

 

これらの地域を支配下に置いたことで、ビザンツ帝国は地中海の約3/4を囲む「海の帝国」となったのです。

 

どれくらい広かったの?数字で見てみよう

では具体的に、他の国と比べるとどのくらいの広さだったのかというと…

 

面積:約350万km²

この広さは、現代の国々と比べると以下のような感じです。

 

  • 現代のインド(約328万km²)とほぼ同じ
  • 古代ローマ帝国(最大約500万km²)よりは小さい
  • 中世の神聖ローマ帝国(最大120万km²)よりは圧倒的に広い
  • 現代のEU加盟国合計領土よりやや小さめ

 

当時としては、世界最大級の領域国家だったと言ってもいいでしょう。

 

なぜそんなに広がったの?

ユスティニアヌスの拡張戦争には、戦略と理想が詰まっていました。

 

北アフリカ征服(ヴァンダル戦争)

533年、将軍ベリサリウスが北アフリカのヴァンダル王国を征服
この遠征によって、ビザンツ帝国はかつてローマの穀倉地帯だった地域を取り戻すことになります。

 

イタリア戦争(東ゴート戦争)

535年からおよそ20年かけて、イタリア半島を東ゴート族から奪還
ついにローマの町も支配下に入り、「ローマ皇帝がローマを治める」という状態が復活したわけです。

 

イベリア半島南部へ進出

554年ごろには、スペイン南部の沿岸地域にも手を伸ばし、 西方への足がかりとして一定の影響力を持つことに成功します。

 

でも…その広さ、維持できたの?

答えは残念ながらNO。広げたそばから、問題が山積みだったんです。

 

軍事的・経済的負担が重すぎた

広大な領土を維持するには軍隊もお金も人材も必要でしたが、 当時のビザンツにはそれを持続できるだけの経済基盤や人口がなく、征服した土地の多くは短期間で失われていきます

 

疫病と戦争のダブルパンチ

541年以降、帝国内で猛威を振るったのが「ユスティニアヌスの疫病」と呼ばれるペストの大流行
さらにササン朝ペルシアとの東方戦争も絶えず続き、帝国の体力は急激に消耗していったのです。

 

こうして見ると、ビザンツ帝国の最大領土はほんの短い“黄金の時代”だったものの、
そのスケールと理想はまさに「ローマの再興」を体現した壮大なプロジェクトだったんですね。
このように、夢のような版図の拡大は、帝国の歴史の中でも特別な光を放っていたのです。