
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領土って、じつはけっこう“波乱万丈”だったんです。
ローマ帝国からスタートして、一時は地中海を囲む大帝国にまでなったかと思えば、その後はじわじわと削られ、やがて小さな都市国家のような姿に…。
結論からいえば、ビザンツ帝国の領土は「ローマ帝国の東半分」から始まり、「再征服による最大拡大期(6世紀)」を経て、「イスラーム勢力・スラヴ民族・十字軍・オスマン帝国」などとの戦いの中で縮小し続け、最終的にはコンスタンティノープル周辺にまで追い込まれていったのです。以下で詳しくみていきましょう!
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まず最初に、ビザンツ帝国はどういうかたちでスタートしたのかを見てみましょう。
395年、テオドシウス1世の死によってローマ帝国は東西に分裂。 東側の領土がそのままビザンツ帝国の原型になりました。
このときの領土は以下の通りです。
つまり、当時のビザンツはローマ帝国の“東の屋台骨”そのままだったんですね。
ここで一気に領土が広がるのが、あの名君ユスティニアヌス1世の時代です。
527〜565年のあいだに、ビザンツは西方の旧ローマ領を次々と奪還。
北アフリカのヴァンダル王国、イタリアの東ゴート王国、イベリア半島南部などが征服されました。
結果、ビザンツの支配地域は、
となり、この時代がビザンツ帝国にとって最も壮大な瞬間だったといえます。
でも夢のような拡大は長く続かず、すぐに“現実”が襲ってきます。
7世紀以降、アラブ人のイスラーム帝国が急成長。 ビザンツはわずか数十年で以下の地域を失います。
帝国の東南部が一気にイスラーム勢力に奪われたことで、領土も人口も急激に減少したんです。
バルカン半島では、スラヴ系民族が南下し定住を始めます。 この動きも、ビザンツにとっては恒常的な圧力となりました。
ここで息を吹き返したのが「マケドニア王朝期」と呼ばれる時代です。
軍事・行政改革(特にテマ制の強化)によって、バルカン半島・小アジアの統治が安定。
10世紀にはブルガリア帝国を征服し、再び「内陸強国」としての地位を取り戻します。
皇帝バシレイオス2世(在位976–1025)のもとで、 アルメニア、グルジア方面にも進出し、東方でも勢力を伸ばしました。
この時期は領土的には再拡大し、帝国の基盤も比較的安定していたんです。
ところが、1204年――十字軍による裏切りが、帝国に深い傷を与えます。
第4回十字軍が首都を占領し、ラテン帝国を建ててしまいます。
ビザンツ帝国は事実上分裂状態となり、ニカイア、トレビゾンド、エピロスなどの地方政権に分かれました。
1261年にパレオロゴス朝によって首都は奪還されましたが、領土はもはやかつての10分の1ほど。ギリシャ本土と沿岸都市、そしてコンスタンティノープルが中心の小国状態になっていたのです。
最後のビザンツは、もはや一都市国家のような姿でした。
帝国の末期には、ペロポネソス半島にあるモレアス地方と、首都コンスタンティノープルが残るのみ。
ついにメフメト2世率いるオスマン軍がコンスタンティノープルを占領し、千年続いた帝国は完全に終焉を迎えるのです。
こうして見ると、ビザンツ帝国の領土は、時代ごとに劇的な変化をたどっていたんですね。
このように、ローマの後継として広大な領土を持った時期もあれば、外敵や内紛により縮小しながらも、しぶとく生き延びた――
それがまさに“千年帝国”と呼ばれるゆえんなのです。