ビザンツ帝国の「後継国家」といえる国は?

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がコンスタンティノープルの陥落とともに滅亡したのは1453年のこと。けれど、その後に何も残らなかったわけではありません。むしろ、この帝国が築き上げた政治制度、宗教的伝統、文化の数々は、別の国々によって受け継がれ、新たなかたちで歴史の中に生き続けていったのです。
結論からいえば、東ローマ帝国の後継国家とされるのは、「ロシア帝国」「オスマン帝国」「ギリシャ王国」などです。どのようにそれぞれが帝国の遺産を引き継いでいったのか、細かく見ていきましょう。

 

 

宗教と皇帝思想の継承

ビザンツ帝国を支えていた柱のひとつが、東方正教会を中心とした宗教的な世界観と、皇帝による「神に選ばれた支配者」という統治思想でした。これをそっくりそのまま、ある地域が受け継いだんです。

 

ロシア帝国

ビザンツ帝国の滅亡後、「ビザンツの精神的な後継者」として名乗りを上げたのがモスクワ大公国、のちのロシア帝国です。彼らは自らを「第三のローマ」と呼び、「第一のローマは堕落し、第二のローマ(コンスタンティノープル)は倒れた。ゆえに第三のローマである我々がその後継だ」と主張したのです。

 

この考えを裏付けるように、ビザンツ最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア・パレオロゴスは、ロシアの大公イヴァン3世と結婚。これにより、皇帝の血統も象徴的にロシアへ引き継がれました。

 

さらに、ロシアでは皇帝の称号として「ツァーリ(カエサル)」が採用され、ビザンツと同じく、政治と宗教の結びつきが強い統治体制が築かれていきました。

 

東方正教会の伝播

ビザンツ帝国から正教の信仰はバルカン半島や東欧諸国にも広がり、セルビア王国ブルガリア帝国などは、それぞれの地域で独自の正教会文化を発展させました。
ビザンツ式の建築様式、イコン(聖像)崇敬、典礼の形式なども受け継がれ、これらの国々に深く根付いていきました。現代でも、ロシア正教会やギリシャ正教会など、ビザンツ起源の宗教的伝統が息づいているのです。

 

領土と政治体制の継承

ビザンツ帝国が築き上げた支配の仕組みや広大な領土の一部は、別の勢力の手に渡っていきました。とくに帝国の心臓部であるコンスタンティノープルを受け継いだ国には注目です。

 

オスマン帝国

1453年、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させたオスマン帝国は、そのままこの地を新たな首都とし、「イスタンブール」として再生させました。
オスマンのスルタンたちは、ビザンツの皇帝が持っていた「地中海世界の支配者」というイメージをうまく利用し、異教徒をも包摂する広大なイスラーム帝国を作り上げていきます。

 

行政制度や税制においても、ビザンツ帝国の仕組みを部分的に採用。キリスト教徒に対するミッレト制度(宗教共同体ごとの自治)なども、ビザンツの宗教的多様性にヒントを得たものだったとも言われています。
そして何より、東ローマ帝国の文化的・建築的遺産—たとえばハギア・ソフィア—は、イスラームの世界に取り込まれながらも新たな輝きを放っていきました。

 

ギリシャ王国

19世紀になると、オスマン支配下にあったギリシャ人たちが独立戦争を起こし、ギリシャ王国が誕生します。この新しい国は、自らのルーツをビザンツに求め、国民意識の中に「かつての帝国の末裔である」という誇りを強く持っていました。

 

ギリシャ正教を国教とし、古代ギリシアとビザンツの伝統を融合させる文化政策がとられたのも特徴です。現在においても、ギリシャ国内では東ローマ帝国の歴史が文化や教育の中で非常に重要な位置を占めており、「ビザンツの精神」を受け継ぐ国としての意識が根強く残っているのです。

 

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の終焉は、ただひとつの国の滅亡ではなく、その遺産が世界各地へと分散されていく起点だったとも言えます。
このように、宗教、政治、文化のかたちを変えながら、ビザンツの灯火は複数の国に引き継がれていったのです。